1章 , ダスタールの煉獄 005
 ジャーミイ=グヮン=キルフェイスとファス=グヮン=アップワードは、鼻歌を歌いながら歩き、ようやくダスタールの貧民街の塀まで辿り着いたところだった。
 キルフェイスはファスの義兄にあたる。ファスの姉ベニーニが、弟の先輩だったキルフェイスと結婚したのである。年は十違うが階級は一つしか違わず、さらに現在は偶然にも職場が同じで、この義兄弟は何かと仲がよかった。もっとも今は、テロでの深刻な状況のはずであって、陽気にぶらぶらと歩いて現場へ向かうのはありえることではないはずなのだが。
「おい、今誰か知っている奴とすれ違わなかったか」
だらだらと続いていた貧民街の話を中断して、キルフェイスは足を止めて振り返った。
「義兄さんの知り合いなんて、軍部だけで何人になりますか」
「いや、有名人だ、綺麗なお嬢さんの」
ファスはようやく振り返った。
「義兄さん、綺麗なお嬢さんに知り合いがいるんですか。それは、それは。姉さんに殺されますよ」
「違うって、嬉しそうにするな。あいつに妙なこと吹き込むなよ。このあいだもその前も散々にされたんだ」
「濡れ衣ですよ。いつも告げ口するのはフィオの奴でしてね」
「何だと、じゃああのくそチビのフィオにいっておけ。こっちこそ濡れ衣だらけなんだぞ」
一息ついて同時に顔を上げると、既に娘―――ナザロの姿は見えなくなっていた。
「おい、消えちまったじゃないか」
「見えなくなったと言うんですよ。ところで誰だったんですか」
「あ?ああ、見間違いじゃないかと思うが……あのほら、何と言ったかな、后候補の」
「そりゃ見間違いですね」
「最後まで聞け! あ、そうだ、思い出したぞ。ラグボー家のお嬢さんだ。アリアドニ=デュン=ラグボー」
「へええ?」
「何だ?全く信用していない声だな」
「いえ、そんなことは。それに……そういえば」
真面目な声でファスは答えた。彼には少し思い出すものがあった。
「確かアリアドニ=デュン=ラグボーは養子ではありませんでした? そうだ、そうですよ、この貧民街の出身ですよ。だから后候補に加わったのでしたよ。あの馬鹿王―――いや、失礼しました―――我王さまさまは、どうも貧乏人に優しいという見かけを作りたいそうですから。それで王宮内で軽い紛争が起きていましたよね」
 ファスは現在の王が好きではない。そしてそれを隠そうともしない。誰に対しても著しく忠誠心に欠ける男だが、王に対しては特に恐ろしい偏見がある。
「だから対候補のイーダ家は、娘―――ええと、ケーナ嬢と言いましたっけ―――に、わざわざこの貧民街へ物資を恵みに来させていたそうですよ。笑うことさえ難しいですよね」
「おい、だがそうだとすると、ちょっとやばいんじゃないか。護衛の一人もいなかったぞ。抜け出して来たに違いない。知らせといたほうがいいかもしれん」
「ですが本当にそうと決まったわけではありませんしね」
二人は足を止めて一瞬考え込んだ。
「……まあ、こっちから来たってことはこっちに用があったんでしょう。誰かいたらきいてみますか」
「そうだな」
 貧民街のありさまはひどかった。初めの爆発には耐えた建物も、二度目の爆発でほとんどがやられ、足の踏み場もないほどに瓦礫が散乱していた。既に地上三メートルより高いものはない状況だ。
 さらにひどいのは死屍の数々である。瓦礫にはまだ半乾きの血がこびりついていて、それを流したかつてのここの住民らは、頭を割るか潰すかしてもはや顔の判別がつかないのがほとんどだった。立っている生物は存在しないかに見える。おそらく本当にいないのだろう。
「―――ひどいな」
「ええ」
入ってすぐのあたりが最も死屍が多いのは、おそらく一度目の爆発の後大勢が逃げるため門に走ったからだろう。しかし間に合わなかったのだ。二度目の爆発まで大した時間はなかった。なまじ門に近かった者ほど、崩れ落ちる塀の下敷きとなったのだ。
「今爆発があったらおだぶつだな」
「ないことを祈りましょう」
「もしあったら、やはり死ぬしかないか」
「見たところ、生者はいなさそうですからね」
「……本当にいないのかな」
「さあ。訊いてみます?」
「誰にだよ。死者にか」
ファスは体を反転させると、両足を肩幅まで開いた。大きく息を吸い込むと、そのまま、何かを喚いた。
「……何だ、今のは」
「あれ、姉さんから聞いていませんか?ズー語といいます。ズーズーが基本の発音です」
「どこの少数民族の言葉だ」
「少数と言いますか、もう途絶えましたね。随分昔にフィオが作って使っていた言葉です」
「……おまえ、一緒に過ごしたのはフィオが一歳から三歳のころと十二歳からだろ。いつだよ」
「だから、フィオが一歳の頃ですよ。姉さんと頑張って解読したものです。ズー・ズズーがお腹がすいた、ズーズー・ズがミルクが欲しい、ズ・ズーズがおむつを変えろ、ズー・ズーが一緒に遊べ」
「……おまえら、都合に合わせて適当に決めていたんじゃないか」
「さあ?」
 ファスはにっこりと笑った。
キルフェイスはため息をついた。考えてみれば、ものすごい家と家族になったものだ。
 しかし今はテロの最中なのだ。盛り上がっている場合ではない。キルフェイスは背筋を伸ばし、ようやく上官らしい行動を取った。
「アップワード中佐、ここの地図を渡すから、貴官は生者を探し確認しつつ反対側の塀まで歩いてみてくれ。くれぐれも落石には注意するように」
「はっ、キルフェイス大佐」
敬礼の形を作りながらファスは、何故義兄がこういう言い回しをすると冗談にしか聞こえないのか本気で不思議に思い、笑いをこらえるのに苦労した。

 ナザロが去ってから、イチエはまたも身体を投げ出して死んだように蹲っていたが、再び気配を感じて神経を逆立てた。
 軍服を着た男がふたり、瓦礫の上でバランスを取りながら、何か哀れんだ顔で話をしていた。耳をすますと、会話がよく聞えた。疲れきって、更に血が入って思うように開かない目にはあまり近くには映らなかったが、さほど遠くにいるわけではなさそうだった。
「―――生者……ゼロか……つまり……息が……者も?」
「……は一応すべて……したつもりで……ますが……全員、息はあり……んでした……」
「惨……な。少将は――モット・ドーンの兵は何を考えているんだ?」
ふたりは近づいてきた。イチエに気がついていないらしい。
「―――おい」
イチエは二つの人影に声をかけた。

「おい」

 ……少女は、唇を派手に切っていた。
その血の跡が血を吐いたように見えて、ファスは一瞬たじろいだ。
 よく見れば、片足はその機能を果たしていないようだった。片手を瓦礫の壁についてバランスを整えていたが、片足は膝から下がひどい有様である。紅色にしか見えなかった。両手のうち片手も、真っ赤に染まっている。
「……生者がいたか」
この状況でよく、と、キルフェイスがぼそりと呟く。
「君は……」
ファスは目を凝らしてよく少女を見つめていた。
 どこかで見覚えのある。焦げ茶に汚れた灰色の髪に大きく薄い瞳、首にかけた小さなケースと小ビンの群れ。無色透明の毒液、紅色の仮死薬、鮮やかな黄緑の爆液、ゼリー状の、深い藍色のゲッザ。
―――自分はいつか、毒をぶら下げる少女に会ったことがなかったか。そして何より、鎖骨の上で光る、黒橡とビリジャンの軍バッジ。これは、昔―――。
「君は、もしや、ミス……ええと」
「イチエ=グヮン―――いや、イチエ=ダ=グヮン=ロー……」
イチエは自分でそう言ってから、はたと気付いてぎろりとした瞳を持ち上げた。
 片手がバッジに伸びて、それを覆った。
「なあ、この名をくれたのは、あんたの上官じゃなかったか?」
やはりそうか。
ファスは何ともいえぬ感情を胸にのぼらせて言葉を詰まらせた。だが少女のほうは少しもそんなことはないようだった。
「それで、彼はどうした?」
「……ゼブリン少将。少将は、ミス=グヮン=ロー、彼は亡くなった」
「そうか」
イチエは軽くうなずいた。
……軽くうなずいただけだった。
それを見て、ファスは尊敬する亡き上官の正しかったのを知った。死ぬという単語は彼女らにとって、最も身近にあるものなのだ。それが誰に当てはまろうと、親だろうと親友だろうと反応は大して変わらないのだろう。死を賛美する軍の最高司令官は、これをどう思うだろうか。
「彼には感謝している。敵と味方の区別が簡単につくようになった。いつか、そうだな、会えたら礼でもと思っていたが、そうか、死んだのか」
「亡くなったと言え、一応グヮンを名に持つ軍人なのならば」
顔をしかめ、キルフェイスが口を開いた。イチエははじめて気付いたように振り返って、キルフェイスを見つめた。
「ゼブリン少将は、このあいだの会戦で隊もろとも吹き飛んだ。前線を総指揮していたのでな」
「あんたは?」
「俺はキルフェイスだ。ゼブリン准将が少将に昇進した頃からここにいる。それから、こいつはアップワード中佐」
イチエは冷ややかな瞳に二人を映すと、申し訳程度に頭を下げた。



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