太陽は変わらずに照っている。
照らされ続けてこの大地は、あと一滴の血が地面に吸い込まれたら、もう壊れてしまいそうだ。
朦朧として座り込み、うつらうつらしていたイチエは、がさりという音ではっとして意識を取り戻した。
やはり知らぬうちに死んで、夢を見ているのかと思った。
視界を掠めた影は、懐かしすぎる顔貌の持ち主だった。
「ナザロ……」
一瞬、イチエはそう呼んでいいものかどうか迷った。彼女がこんなに美しい人だったとは知らなかったのだ。
ナザロは少しばかり煤で汚れた桃色のワンピースを身に付け、柑子色の長い巻き毛を遠くの爆風に靡かせていた。そしてイチエを哀しそうな瞳でじっと見つめた。
「あなたひとり、なのね」
イチエは反応に迷ったが、曖昧にうなずいた。だがそれに目を向けずに、既にナザロは所狭しと並ぶ瓦礫を綺麗な手で掻き分けていた。
―――ああ、ナゼラを探しているのだ。
それも、過去のナゼラを。
遠くで、建物の破片が舞った。
イチエが視線を戻したときナザロは、ケーナの魂の入れ物だった冷たい体から手を離したところだった。
「ナザロ……」
振り向いたナザロの顔は、イチエの知らないものだった。悲しみと怒り―――普通の怒りではない、静かな問うような怒りの気。
「イチエ」
イチエはぱっと顔をそむけてナザロと目があうのを避けた。イチエは昔からナザロに弱かった。見透かされるような瞳が恐ろしいのだ。
「お聞きなさい」
ナザロは自ら動いて、イチエの正面に立った。
「イチエ、聞いて。わたしはあなたをイチエダとは呼ばなかった。あなたがチエダを殺してはいなかったこと、わたしは分かっていたのだから。でもあなたはケーナ=デュン=イーダという少女を殺したのだわ。そしてナゼラも、ソルも、門の前で死んでいた、仲間全員をよ。わたしは見てきたのよ、イチエ。何が起こったのか、手に取るように分かったわ」
イチエは目をそむけた。
「チエダのとき、あなたはまだ幼かった。仕方がない状況だったわ。でも今は違う、あなたはここにいる全員を救えたはずよ。あなたにはそれだけの能力と知恵があった。そしてそれはあなたにしかなかったのに。ああ、あなたは成すべきことをしなかった。自分の能力を自分のためだけに使った、それはいいわ、でもそのために犠牲を出してしまったのね」
「……」
唯一イチエを認め、その成長を楽しみにしていたナザロ。
恩を仇で返してしまったという考えが、イチエの頭を一瞬よぎった。
しかしイチエはそういう風に育ったのだ。それで今まで上手くやれてきて、こうして生き残っているのだ。
―――生きているやつが勝ちだ。勝てば官軍。死んだやつに何が言える。
「イチエ。あなたに名前をあげるわ。これからはこう名乗りなさい。あなたはイチエ=ダ=ローよ。チエダのことを忘れてはならない。唯一許されて良かった罪、けれど自分によって有罪にしてしまった罪よ。あなたは一生、チエダの影を負って生きていくのよ」
新たな『味方でない者』を作ってしまったことを、イチエは悟った。
悲しみはなかった。だがうなずくだけのイチエではなかった。作るならば中立の者より敵のほうが扱いやすい、と、イチエはよく知っていた。
イチエは顔をあげると、いつもよりわずかに明るい声を出し、
「ありがとうナザロ、よく分かった。あたしはイチエ=ダ=『グヮン』=ローだ」
「何ですって?」
「グヮン=ロー。あたしはグヮンの名をもらったんだ。あんたが連れ去られてからのことだ。それで散々だったが、あたし自身は嬉しかったよ、ナザロ。晴れて正義の名目で人を殺せるんだ。あたしらの生活を奪ったやつらを。幸福って言葉を知らない子供を作ったやつらを。殺せるんだ、それで金がもらえる。ナザロ、あたしは、喜んだ。嬉しかった」
ナザロの瞳がイチエの鎖骨へ走った。軍バッジがあるのだ。
「おお―――! イチエ、賢いイチエ、あなたなら分かっているくせに―――そこまで堕ちるのね!」
「ああ、そうさ」
嫌悪の表情を作り一瞬後、ナザロは振り向いた。街の方向へ足を向けた。小走りになるほど急いで、できるだけ早くこの場所を離れたがっているように見えた。
「ナザロ、忘れ物だよ。ほら」
土にまみれ泥に濡れ、その機能を果たさなくなった腕生物探知機だった。イチエは軽く放って投げた。ナゼラの形見だったが、その前の所有者はナザロだったものなのだ。
ナザロは受け取ったその小さな機械を、じっと見つめていた。今はもう動かない。この所有者も、最期には使う暇もなく死んでいったのだ。
ナザロはそれを握り締めて、きっと顔を上げた。柑子色の髪が一房、あごに張り付いた。
「あなたが好きだったわ、イチエ。あなたに何かを感じていたの。ただし、今まではよ」
もう振り返らなかった。イチエも声をかけなかった。
うなだれるように首を膝におき瞳を閉じ、安らかに眠っているようだった。
軍人は貧民を圧迫する。貧民は軍人が嫌いだ。
けれど貧民窟に暮らすイチエにとって、手っ取り早く力を手に入れるためには、軍人の姓を手に入れるのが一番の近道に思えたのだ―――唯一の味方だったナザロを失ったイチエにとって。
愚かな貧民窟の仲間たちは、ナザロを祝福して送り出した。そして大暴れして反対したイチエを蔑み、挙句の果て隔離し、そのまま故意に忘れるという偉業を成し遂げた。空腹で死にそうになって、胸に下げた様々な薬を調合し石壁と片腕の一部を爆破させて脱出したイチエは、もうこの貧民窟の人々をけして仲間となど思うまいと心に誓った。
そんな時だった。ダスタールのこの貧民街に定期的にくる軍人勧誘がきたが、その日は特別で、著名だったゼブリン准将が何かの用事のついでで姿を現した。イチエはその機会を逃さなかった。
型どおりの勧誘が終わり、貧民のほとんどが唾を吐いて壁の内に閉じこもった後、イチエは准将とその副官に声をかけた。
「准将さんよ」
ゼブリンとその副官は同時に振り返った。
「軍人の勧誘に来たんじゃないのかい?なぜあたしらを勧誘しないんだ」
強い瞳の閃光が二人を捕らえた。
一人の、まだ小さく汚い少女だった。
「なぜって……君は少女じゃないか」
「やはり、問題はあるのか」
二人顔を見合わせると、上官の命を受けて副官は向き直り、足を投げ出して座ったイチエの目線まで身体をしゃがめた。
「人類の法則だ、お嬢さん。男というのは女より身体は強い。体力ももつ。軍人には、男のほうが向いている。だから世の中から男が消えない限り、私たちは乗り気でない女を勧誘するつもりはないのだよ」
「ああ、そうだな、それは分かる」
案外素直に、少女はうなずいた。他人が強要するのは難しそうなその仕草を、無造作に二回もこくりこくりと首を振った。
そして、
「だが、その女が乗り気だったらどうするんだ?」
副官は言葉に詰まってゼブリンを振り返った。ゼブリンは少女を凝視していた。
「君は……名前を聞いておこうか」
「あたし。イチエ=ロー」
イチエは期待するような瞳をして、居住まいを正した。
ゼブリンは懐から重々しくひとつのバッジを取り出した。
「そうか、ミス=ロー。わたしはゼブリン准将だ。君に、これを渡しておこう。君は今日からイチエ=グヮン=ローだ。いいね、ミス=グヮン=ロー。覚えておくことだ」
イチエは受け取ったバッジをしばらく見つめると、食い入るような視線をゼブリンに刺した。
「こんな簡単に、いいのか」
「カン違いをするなよ。これは喜ぶべきことではない」
「役所に届けたり、ないのか」
「ない。将官は見込んだ奴にバッジをやっていいことになっている。だからそのバッジにはわたしの名前が入っているがね。まあこれには証人がいるが、このわたしの副官のアップワード少佐がそれだ」
イチエの視線を受けて、ファス=グヮン=アップワードはちょっと頭を下げた。
ゼブリンは一言二言別れの言葉を告げて、くるりと後ろを向いた。ファスもそれにならった。
イチエは礼を言わなかった。礼を言うべき事ではないと思ったのか放心していたのか、そのころのファスには分からなかった。
門を少し離れたとき、ゼブリン准将が重々しい声で彼に声をかけた。
「アップワード少佐、あの少女を覚えておけ、しっかりとな。あの子はきっと偉大になる。自分のことを芯から理解しているやつは大人でもそういないが、あの子は自分の価値をしっかり知っている。いいか、ファス。将来生き残るやつはああいう子なのだ。そして勝ち負けを決めるのも正義を決めるのも、結局は生き残ったやつだけなのだよ」
ファスは無言で敬礼してそれを受け入れた。彼は珍しく、この上司を尊敬していた。
―――もう何年も前の話だった。
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