1章 , ダスタールの煉獄 003
 「どうやってあんな物を手に入れたの?イチエ」
「あんな物?」
「液爆よ……本物の……最新型の……そんなものを。軍人って?」
「ああ、あれか」
イチエは足を止めずに、ひたすら走りながら軽く言った。
「嬢、あれはただの腹痛止めだ……」
「え?」
「さっき言ったことは嘘だ。悪いがあんたの命を利用させてもらった。あたしは死にたくない……死ぬもんか。生き延びるにはああするのが策だった。最善策じゃなかったかもしれないけど、みんなが助かる方法を考えてる暇に死んじまったら意味がないからね。それにあたしはあいつらが全員嫌いだ。死んだって知るもんか。いいじゃないか嬢、あんたは生きられるんだから。ソルが阿呆なものを手にもって脅しつけ兵を止めている間に、あたしはあんたを連れて逃げることができるだろ」
「では……ではソルやみなさんはどうなるのです」
「みんなはまず自決する手はずだ。ソルは最終的にあの腹痛止めをばら撒くだろう。そして爆発しないことに気が付いたら、銃でバンと撃たれるか、急いで自決をするだろうさ。あたしを罵るだろうね。敵に殺されることだけを、異常なほど嫌がっていたんだからね」
ケーナはぞっとしたようにイチエを見た。
「イチエ、そんな罪深いことを、あなたは……」
「ここはそういう世界だ。あたしを汚れていると思うなら、この手を離してどこへでもいくがいいさ。死ぬぞ。あたしはあんたを守る気なんてさらさらないんだ。とりあえずあたしについてきたら、生きる確率は高まるけどね。その可能性だけを提示しておく」
ケーナは泣き出した。
「出口はどっちなの?わたくしはもう帰りたい」
「出口なんかもうあるわけないだろ!出た瞬間、バン!死ぬぞ。ここから出られるなんて事を思うなよ、少なくとも今日中にはね。さっき話したろう、穴にいくぞ。泥棒穴だ」
 それから何分か、イチエもケーナも無言で走った。ケーナにとってその時間は、何時間とも思われた。いつそのあたりの影から兵が飛び出して彼女達を撃つか、その恐怖に怯えながら、ただこの小さく薄汚れたイチエだけを頼りに走った。
「――よし、ここの下が泥棒穴だ」
イチエが突然足を止めた。
 そこは崩れたビルに埋まった暗がりで、ケーナの目にはどう見てもそこが命を永らえさせる場所には見えなかった。
 しかしイチエは構わずに廃墟に近寄り、無表情で瓦礫をどけ始める。
「その下に……何があるの?」
「穴だって言っているだろ。何でもあるんだ、最高な穴なんだ……死なないですむ。ここで一晩を明かすぞ。一人なら二晩、二人なら一晩は大丈夫な食料があるはずだ。一晩じゃ危ないが、とりあえず今日を生きなきゃ始まらないだろう」
イチエがそう高らかに断言した瞬間だった。
 バン!
銃声が轟いた。
 ケーナがひっと息をのむ。
「――ソルだわ!ソルが死んだんだわ……」
イチエが面倒くさそうに顔を上げる。
 その手はまだ瓦礫をまさぐっていた。
「それはさっき予告したはずだ」
「ソルが、ソルが死んだんだわ……」
「嬢!座りこむんじゃあない!立て、死にたいのか。立って瓦礫をどけるんだ」
ケーナは改めて恐怖を覚えた。
 イチエといると、物事が絶えず進展していて、恐怖を覚える暇さえなかったのだ。だがここで、恐ろしい罪悪感が彼女を襲った。
 大勢の命の上に立っている自分に、それだけの価値があるのかどうか。
「イチエ、イチエ、お願いよ……わたくしにそれをちょうだい」
悲壮な顔をして、ケーナが震える手をイチエの胸に下がるビンに伸ばした。
「わたくしはもういいわ。代わりにあなたが生きて」
「馬鹿を言うな! 自決だけは許さない……何のために皆が死んだんだ。そんな弱気な奴のために死んだのか」
「いいえ、強い人のために死んだのよ。あなたは強いから」
「あたしが生き延びるためだったら、あんたと違って皆死ななくても大丈夫だったんだぞ!」
「でもさっき言ったじゃない。ひとりだったら二晩、穴で過ごせるんでしょう……あなたは生きていけるわ……わたくしは穴の中で、食べるだけ食べた後、きっと死んでしまうわ。それならその分のわたくしの命を、あなたにあげるわ。命をあげる。わたくしの分まで生きて」
「冗談じゃない。あたしが穴の中であんたが死ぬのを黙ってみてるとでも言うのか」
イチエは焦った。彼女はまだ十分に幼くて、完璧な氷の心の持ち主ではなかったから、焦ることを知っていた。
「遅いわ……ごめんなさい」
ケーナは苦しそうに息を漏らして笑った。
「歪む者を繋いでしまったかしら」
美しい微笑みだった。
「何?」
「ごめんなさいね、イチエ、許して」
ケーナは敏速な動きでイチエの手から毒薬を奪った。栓をとり、そのまま喉へ流す。
「馬鹿が!」
 イチエのほうがすばやかった。
喉に数滴の雫が垂れた時、既に小ビンはイチエの手にあった。
 ケーナは声が出せなかった。雫が通った喉がひどくただれ痛覚を刺激し、唾を飲み込むことも、如いては息を吸うことさえかなわない。
 痛みで涙が出た。
「吐け、はやく吐くんだ。猛毒なんだぞ! 腹に入れるな、さっさと吐くんだよ」
叫んだが、ケーナは従わなかった。
 瞳が死を訴えている。
ひどく痛いのは、イチエにも分かった。
 イチエは、残った小ビンの中身をケーナの喉に注ぐと、彼女をうつ伏せにして泥をかけ、その死を待たずにそのまま逆方向へ身体を向けた。そして死体を背にしながら、再び何事もなかったように瓦礫をどけ始めた。


 ダスタールの貧民窟にまるで寄生していた大勢の貧民どもは、いまやその人数をたったひとりと孤立させている。
 彼女の名はイチエ。正確な年齢は分からないがしかし、小柄だがおそらく十五ほどの、聡明な少女。


 そのイチエは、幾度も躓いて倒れながら、足をくまなく動かして、灰色の瞳が見つめる方向にしっかりと歩んでいた。地下である。瓦礫を動かして現れた石の階段を下り、ケーナがその生存権と所有権を放棄した泥棒穴へ滑り込んだ。
 彼女は息をつく。目の前に焦がれた食料や水があったが、ここへきて何一つ口にしたいとは思わなかった。ただ身体を休めた。床が平らでないため、頭が下になり、血が上って眩暈がするまでぴくりとも動かなかった。
 どれくらいの時が過ぎたのか、イチエは気配を感じてふと目を開ける。
数メートル上の地面から、大勢の力強い足音が響いてきていた。
(モット・ドーンの兵か……)
―――穴の入り口を瓦礫で隠すことをしなかった。
 イチエは再び目を閉じて、思わず息をつめ気配を消した。
―――なるようになれ。ここまで生き延びたあたしを、神はもはや殺すまい。


「二十!」

声がした。

「中佐、これで二十です。二十の死体を確認しました」
「よし、ではこの薄汚れた街から撤去だ」
「はっ」


 イチエははっと目を開けた。
思わず身動きをしたが、何もおきない。地上を大勢が通り過ぎるのを、呆然として見守っていた。
 気配のいっさいが消えて数分。
イチエはそろそろと身を起こし、階段を両手をついて上りきった。


 見渡す限りの無人空間。
ぎりぎりの体力で、立つ影がひとり。


(行った……)
勝った。イチエは勝ったのだ。
 足の力を抜くと、意識に反して身体がずるずると壁を滑り落ちた。ひどく疲れていた。その、おそらく最後の力で、イチエはあごを横に向けた。
 目線の先に、焦げ茶色の長い髪が伏している。
イチエは顔を戻しため息をついた。わずかに顔を歪め、笑ったようだった。


 ……冷酷にして残忍な時は流れ、それでも生きている奴がいる。



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