1章 , ダスタールの煉獄 002
ところどころに血が滲む茶のまだらな腕を片方、イチエはあぐらをかいた足にやった。目線を追うと、蝿が一匹、彼女の腕に止まっている。
隣にはケーナがぴったりと寄り添っていた。皆が残された短い時間を有意義にするため走り回り、ソルが全てを受け付けないオーラを放っている今、ケーナの頼るべきはイチエしかいないのだ。
イチエは、ただれた右手にそっと息を吹きかけた。痛みが増す。ソルは、おそらく故意に爪を立てたのだ。
―――考えなければならない。
イチエは、この歳で、こんな場所で、自分らを圧制する金持ちのために自決してやる想いはさらさらなかった。そもそもなぜ皆がソルの命に従うのかさえ分からない。
少なくとも、こんな貧民街のさらに奥の裏路地で、蝿と溝鼠に見送られて生を終えるようなことがあってはならない。臭うからと林檎の芯や青レモンと一緒にゴミ捨て場に捨てられ、蝿に集られ鼠にかじられ朽ち果てていくような死に様は、イチエには相応しくない。イチエは乱世の人なのだ。イチエ自身にはそれが分かる。そして幸運にも、今は乱世なのだ。少なくともこの貧民街を脱し、その本能を発揮できる時が来るまでは、イチエは死んでも死にきれなかった。
「イチエ」
「何だ」
そうだ。
もっとも単純ではあるが、「死んだふり」というのはどうだろうか。
イチエは色とりどりの薬を常時携帯している。そこへ仮死薬も確かにあった。だが毒消しや麻痺薬のゲッザと違い、仮死薬は滅多に使わないからもう古い。もしかしたらだめになっている可能性もある。それを確認したら、大丈夫だろうか。
「イチエ」
しかし、仮死薬での眠りと本物の死の区別は、簡単につくのかどうか。イチエがもらった時は、珍しい毒かある対応する薬をふくませるしかないと聞いた。もう随分昔のことだ。今頃は、もっと新しい仮死薬も発明されているだろうし、そうだったらこんな旧式の薬など一発で分かるようになっているだろう。だが他に方法がないのだ。賭けるしかない。
「ああ……くそっ!」
この、無知のあたしめ。
生か死かの問題で必死に考え、それなのにこんな単純な問題につまずかなければならないとは。それが常識だと思う金持ちが、いったいいくらほどいるのだろうか。
「さぞ滑稽に見えるだろうよ……学がないってのはそういうことさ」
イチエは空を仰いだ。
そこに空があった。
その唐突さに、ケーナが不思議な顔をしてイチエを見上げていた。
「イチエ、どうかいたしました」
「いいんや……」
イチエはちらりと、永遠の恩を着せるべき少女を見た。多少傷があっても、花のような姫である。この世の恐ろしいことを何も知らずに育ったような瞳をしている。
「あんたは、かあいらしい」
「え?」
ケーナは目を瞬かせた。
「貴族ってのはみんなそういう顔をしているのか。みんな、そんな純粋な瞳と整ったくちびると大きな瞳と綺麗な肌を持っているのか。まるであたしらと正反対な」
イチエは皮肉を言ったつもりだった。だがケーナには通じなかった。
「何か勘違いをしていますわ。金持ちだから美しく、貧乏だから醜いなんてことはありえません。お金では顔まで買うことはできませんもの。それに、あなたの灰色の瞳は本当に綺麗……まるで水晶のようで」
イチエはふっと笑った。
「嬢、動物は好きかい」
「え?ええ、動物、大好きですわ。小鳥を飼っておりますし、犬も猫もいますわ。栗鼠も好きですし」
「違う、そうじゃなく、獰猛な動物の事さ。獅子や虎の、あの肉食の瞳を見て、美しいと思うかい」
しんとした。
「……ええ、思いますわ。強く光り輝いていて」
「それさ」
ケーナはぴたりと口を閉ざした。何となく、イチエの言うことを察したのかもしれなかった。
「―――なあ、嬢、この瞳はそれさ。常に生命の危機に晒されている者の強ささ。それを美しいと思うのは、それを外から見る者の特権だ。この瞳で見つめられて捕らえられたものは、そんな悠長な考えは浮かばないだろうよ。爛々と見えても、それは地獄を知っている煌めきなのさ……」
イチエのどこかおどろおどろしい声に、ケーナはうつむいて、しばらくの時を過ごした。
「イチエ、あなた、ジャパニーね?」
約十分をそのまま過ごすと、別れの前触れを感じたのか、突如ぐっとくだけた柔らかい声で、ケーナはそっとそう尋ねた。
「……何を」
「教えて、ジャパニーなのよね。名前を書いてみて。どういう字なの……わたくしはこうよ、『飯田恵名』よ。わたくしには図形にしか見えないけど、父と母に習ったわ。ケーナというのはとても恵まれた名前なんですって……もう滅多に書かないけれど」
枝で地面に彫ったその字を、イチエはじっと見つめた。そして顔を上げて、ケーナを見つめた。
「ねえ、イチエの字を教えてちょうだい」
イチエは座り方を変えて、常時尖らせてある右薬指の爪で地面を引っかいた。
「こうだよ、名前は『壱枝』。あたしは字が書けるし、読めるんだ。あんたの名前も、意味は分かる。軽い教育を受けたからね。それとローというのは朗か浪か労か。それに妹のチエダが『千枝』だった。ただ妹は字をかけなかったけどね」
ケーナはただそれだけで、ひどく嬉しそうな顔をした。チエダのことには構わなかった。
「お願いだわ、歴史を聞かせて。初めてなのよ、自分以外のジャパニーと会うの」
だがその願いは届かなかった。
「あたしは君の家のように裕福な家系ではないんだ。資料なんか残っているか。ローという苗字から考えて、たぶんいつかどこかのニーと混じったんだとは思う。純粋なジャパニーではないんだ。チャイニーか、どこかとの雑種だ。わずかに知っているのは、祖父が怪盗だったということくらいだよ」
「怪盗?」
「格好よく言いすぎた。泥棒だ。貧乏だったから。やってみたらその才能があって、依頼されて何かを盗むっていうのを仕事にしていたらしい」
ケーナは一瞬詰まった。
イチエが鼻でせせら笑う。
―――その時だった。
「ドーンの兵だ!」
黄金色の閃光と銃声があたりを包んだ。
「間に合わなかったか……」
ソルの声が、ひどく老いて聞こえた。
「ソル!聞いたか、女子どもは惨殺だと。男はその惨殺係だが、どっちにしろ皆殺しだ。これはただのドーンの兵ではないぞ、モット・ドーンの兵だ!」
「モット・ドーン……」
一瞬の沈黙の後、悲鳴と泣き声がさらにひどくなった。
モット・ドーンは生存者を許さないテロのことを指す。モット・ドーンが起これば皆殺しである。小細工をする暇もなく、見つかったら命はない。
「まさか、モット・ドーンがなぜここで起きるんだね」
ソルが落ち着き払って言った。
「ここをどこだと思っているのだね。貧民街なんだよ」
一同が押し黙る。
「貧民を皆殺しにするなんて、今回の兵はよほどの綺麗好きなのかい?街が汚れているのが許せなくて兵を起こしたのかね?」
「ソル!大変だ!」
そこへまた、偵察へ行っていたぼろの男が走ってきた。
「違うんだ!今回の兵を起こしたのはバスケス少将だ!」
「バスケス……!」
その名に、ソルの顔がさっと青くなる。
「対王家の筆頭……まさか、もしや」
「そうだ、ソル」
男の言葉に、イチエは思わず立ち上がっていた。
「ケーナお嬢様を隠せ!見つかったら殺してさえくれないぞ!」
ソルがはっとしたようにイチエとケーナを振り返った。
イチエは咄嗟に、ケーナの肩を抱いて引き寄せた。ケーナがおびえて身を縮めているのが分かる。年の割りに小柄なイチエに比べたら、それでも大きく肉付きの良い背中であったが、まだまるで子供だ。
この様子を見て、ソルが目を細めた。
イチエは好機と見て、ケーナを抱き寄せたまま、ここで大声を出した。
「ソル、名案を売ってやる。あたしのいうことを信用しろ」
「なんだい」
血走った瞳でソルが睨む。
「ここに液爆がある。ソル、これは本物の液爆なんだ。しかも最も広い範囲を巻き込んで爆発する最新型。これを持ってドーンの兵の前にでろ。きっとそのままじゃ信じないから、信用させる為にあんた以外のみんなを、兵が見ている前で自決させろ。ここが重要だ。覚悟を見せるんだ。そしていざとなったら中身をばら撒け。貧民窟がふっとぶだろう。そのあいだにあたしが、嬢を連れてどうにかしてここを脱出してみせる」
イチエはそう早口で捲くし立てた。
「――本物の液爆?」
うなずく。
「どこでそんなものを」
「軍人からもらった。あんたらの忌み嫌う軍人から。確かだ、ソル」
イチエの瞳は真っ直ぐだ。
ナゼラを始めとする二十人の貧民たちは、ソルとイチエのまわりに集まって、自分達は覚悟ができているということを口々に主張し始めた。
死のう。ドーンの兵の前で、堂々と薬を飲み干してやる。ソル、その後は任せる。まず、イチエダにお嬢さんを託して逃がせてやれ。イチエダは嫌な奴だが、頭がいい。
ソルは歯を食いしばった。
「……売るといったね。買ってやろう。何が欲しいんだい」
イチエの手から瓶をむしりとって、静かに言う。
イチエは晴れやかに笑った。
「あんたとみんなの、その命だ。確実にあんたらは死ぬ。あたしの言うとおりにしろよ、そうしたら嬢は助けてやる……」
「そんなもの」
ソルは鼻だけで笑った。
「くれてやる。端からそのつもりさ」
イチエはにやりと笑った。
瞬間身を翻して、ケーナの腕を取って走り出した。つんのめりながら、ケーナも必死に走った。
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