1章 , ダスタールの煉獄 001

 爆風が轟き地面を揺るがす、そんな場所に、イチエらはいた。
 数時前までは、ぼろであってもどっしりとした石壁がイチエらを守っていた。それがいまや、かけらもないのだ。あるのは壁に囲まれていたはずのビルである。もともと「ビルの残骸」という言いかたが相応しかったが、いまや「建物の残骸」にも見えない。瓦礫の山と化している。
 ギャンザツェターの都市、ダスタールの外れの一角。醜悪な貧民窟。 
 イチエはうつろな瞳をした二十名ほどの人々の中で、ケーナ=デュン=イーダ嬢の隣に身体を投げ出して座っていた。
 ケーナは災難だった。彼女はここに住んでいるわけではない。父に言われ物資を恵みにきたのだ―――イチエら貧民街の人々に。
 彼女の服はもともと豪華であったために、煤をかぶり灰にまみれ、イチエらのものより余計にすれて見えた。もっとも、イチエらの服ははじめからすれている。
 イチエははっとため息をついた。
―――すすり泣きと狂った叫びと痛みのための叫びと血の匂いが、この場を支配している。
「ケーナ嬢さま、お逃げくだされ」
イチエは無表情のまま、声がした方に首を傾けた。
「いいえ、今出たら殺されますから。あたしたちが全員、ここでこれを飲みますので―――その間にお逃げくださいませ」
老女ソルが、しわくちゃの手で深緑の小ビンを持ち、意を決したように低い声を出した。
「まあソル、何を言いますか。みなさんを見捨てて逃げるなんて無理です。わたくしはそんな非道な教えは受けておりませんわ」
「教えなんて、そんなもんどうでもええのですよ。ケーナ嬢さまはこれにまったく関係ないのですからね。早う決心固めてくださりませ。道連れになんぞしたら、あたしたちの良心も痛むんですよ」
「良心が残っていればの話じゃないのかい」
イチエは目だけを動かし、唾を吐いて叫んだ。
 隣でケーナがぱっと振り返ってイチエを確認した。ソルはきっと目を吊り上げた。
「あんた以外のみなはそこまで落ちぶれちゃいないんだよ。イチエダ、まだそこにいたのかい。どこへでも行ったらいいのにさ」
「今出たら危険だと、あんたさんが今言ったじゃないか」
馬鹿にしたようにせせら笑って、イチエはソルの瞳を捕らえた。
「なあ、あんたさんはさ、ここじゃ当たり前だけど、学がないだろ。確かにあたしたちがこれを飲み干せば、相手兵も逃げるだろうから、嬢は逃げ出せるだろうさ。だけどそれは相手兵が見てないと意味がないだろう?そしてそれが本物の液爆だと思わせなきゃ意味がないだろう。なあ、ソル婆、相手兵がここを見ているという保証でも?」
イチエはぱっとソルの手の小ビンを奪った。
 ああ、とうなずいたのはケーナで、ソルはイチエを睨んだまま動かなかった。
「イチエの言うとおりですわ。それに、この偽液爆が爆破可能範囲内と思われる場所に相手兵がいるとも限りませんし」
「いや、それは限るよ。測ってみたらわかることだ。でもソル婆、あんたさんの言うことはもう無理だよ。もしあんたさんの言うとおり敵が見て盗聴していたとしたら、今の発言でこれが本物の液爆じゃないってばれただろうしさ」
ソルは初めて表情を変えた。とてつもない怒りの形相になり、
「イチエダ、あんたという奴は……謀ったね、あたしたちを」
「事実を言ったまでさ。勝手にあたしまで自決するよう決めたのはソル婆じゃないか」
「お止めください!お二人とも。こんな状況ですのに」
『こんな状況』、命の危険など、ソルもイチエも存分に味わった快感だ。
 ケーナは半泣きだった。タオルやパンで埋まっていたバスケットは既に灰で重く、しかし彼女はそれを放そうとしてはいない。それをまたぎゅっと握り締め、
「いいわ。わたくし、きっとここまでの命だったのですわ。その毒薬をください。わたくし、自決します」
「何を言うんだね、ケーナ嬢さま。イチエダじゃあるまいし、娘を殺したとあっては大主さまに顔向けできん」
「いいえ、わたくしを殺すのはドーンの兵です。みなさんではありませんわ。そんなに心配ならばわたくし、誰かに書簡でも託します」
だからそれは無理なのだ、とイチエは言おうとしたがやめた。そんな場合ではなかった。
 なぜ、テロや内乱のことをドーンといい、叛乱軍をドーンの兵といってまるで敵が攻めてきたように扱うのか、イチエは昔不思議だった。堂々とこの国のあり方を述べ語っていた大人が、その次の日にはドーンの兵の大将となってしまうのだ。今は、つまり内乱を認めたくないからなのだなと皮肉に笑うことができるが、そもそもそういうことに妙な神経を使うこと自体、この国は間違っているような気もする。
 イチエは押し黙って考えることを始めていた。イチエはわずかだが学があった。そのせいでソル婆ら貧民街の仲間には白い目で見られていたのだが、こういうときばかりは役に立つ。
「イチエダ。何か案はあるかい」
悔しそうな表情で、ソルはイチエに意見を聞いた。
「あたしが助かる道ならある。老婆用のはない」
「ふざけるのもいい加減におし。ケーナ嬢さまのだよ」
イチエは舌打ちした。
「嬢が助かる方法は一つだけさ。成功の可能性は半分の半分の半分だ。それには嬢の度胸とあたしら全員の命と運が必要だけど」
「やるさ」
ソルは悩まなかった。
「本当に?二十人の命と一人の命と、一人のほうが大事だって言うのか。どう考えたって、これから先生き延びる可能性が高いのは嬢よりもあたしらだっていうのに?」
「馬鹿を言うんじゃないよ。ケーナ嬢さまとあんたじゃ、大いに位が違うんだよ。分かるだろうが」
「ああ、位か。そうさ、いつだってあたしらの前には位が立ちはだかるのさ。ただ生まれた敷居が違っただけなのにさ!本人の功績じゃあない」
ソル婆が手を振り上げた。乾いた音がして、イチエが片頬を赤くした。
「まあソル、何をするの!」
ケーナが口に手をあてて叫ぶ。
だがイチエは慣れた様子でまた座りなおすと、たんたんと説明を始めた。
「ソル婆、この嬢を本当に助けたいなら、どうにかしてドーンの兵との連絡の方法を手に入れて、自決を予告した降伏文を送るんだ。または血で濡れた白旗をあげてもいいけど、そんなもんはないだろ」
「いざとなったらあんたらのそのぼろ服で作るさ。それで?」
「文にはこう続けるんだ。降伏をするから代わりに死体を埋めてほしいとね。あたしらに信仰なんてないけど、この国はバーンプリンチデッシという神を信仰している。あんたらは知らないだろうか、この宗教じゃ死体は埋めなければならないとされているんだ。石壁を壊すためにも、死体を確かめるためにも、彼らはきっと来るだろう。あいつらの中にはジョン姓の奴もいたから、おそらく人書を手に入れている。自決するのはそこに書かれた人数、つまりきっかり二十人、この貧民窟の住人とされているなかでまだ死んでいない、あたしらだけだ。あすこには嬢のことは書かれていない。そうしたら嬢は隠れているんだ。泣いてはいけないし、わずかでも動いてはいけない。幸い、この先にはあたしらしか知らない穴がある。泥棒したものをためとく倉庫だが、食料はあるから、あいつらが完璧にいなくなって石壁が壊され貧民街を抜けるまでそこで待つんだ。おそらく二日三日かかるけど我慢する。ナゼラが腕生物探知機を持っていたから貸してもらうといい……いや、形見としてもらうんだ、ナゼラも自決することになるから。あれはいい、確か半径三キロが映る。それから見えなくなったら出て大丈夫だ。そこから、保護してくれる場所までひたすらに走ったら、生き長らえる可能性はあるね」
 ケーナは顔を曇らせて、静かに笑った。育ちの良さが伺える微笑だった。
「それは無理ですわ。わたくしは独りになって泣かずにいられるほど強くありませんもの。閉所は怖いですし、走り続けることもできません」
「無理にとは言わない」
イチエはふっと笑った。嘲るような笑いだった。
「いや、無理でもやってもらわなきゃなんないさ。このソルが最後の最後に将来性豊かな少女を殺したとあっては、あの世でラグボーさまに言い訳できんよ」
「もともと出来ないさ。あんたらの理論じゃ、ラグボーはきっと天国なる場所へに行っているだろうからさ」
 遠回しな皮肉に、ソルは反応しなかった。あまりにも無知で、その皮肉にさえ気が付かなかったのか、イチエがあの世など信じてないことを知っていたからなのか、それとももうイチエに構わなくなっただけなのか、彼女には判断しかねた。
「ラグボーさまって、どなたのことです」
ケーナがぎょっとしたようにイチエに話しかけた。
「知らないのかい。名前くらい知っているだろう。あんたの父さんのような大金持ちさ。自分が貧乏人を作り出しておいて、その援助をすることで心を満たしている馬鹿だった。この貧民街に増え続ける人口を、常日頃から管理して保っていて、死ぬ間際にはさらに惨いことをしたな」
「惨いこと」
ケーナは首をちょっとかしげて訊き返した。
「おお、ケーナ嬢さま、どうかイチエダの吐く言葉なんぞ信用なさらずに!ラグボーさまはそれは慈悲深いお方なんですからね。あたしたちが安楽死できるよう、その小ビンを各自にくれたのもラグボーさま。イチエダはひがんでいるんですよ。ラグボーさまは晩年、不治の病だと分かると、貧民街の仲間だったナザロという娘を養子にして囲ってくだすった。こいつはそれが羨ましいんだろう―――今はきっとナザロも嬢さまのような服を着て、嬢さまのような暮しをしているに違いないのさ」
「黙れ婆!」
 イチエが右手の拳を握り締め、持っていた小ビンを割った。緑色の液体が土のこびりついた手を流れた。流れた後が急激にただれ、赤銅色に焼きつく。皮がむけ、肉が割れ、血が滲んだ。それでもイチエの表情にあるのは怒りだけで、痛みはなかった。
「馬鹿もほどほどにしろ!本当にあれがナザロのためだったと?最愛の妹ナゼラと引き離され、半強制的に屋敷に連れ去られ、醜い爺の一方的な寵愛を受けて一言の反抗もできないのが?ナザロのためだったと言うのなら、それを美談にすることが間違っているんだ。ナザロは生まれも育ちもずっと貧乏街なんだぞ。行ってすぐに嬢のような立ち居振舞いができると思うか。召使のほうがずっとそれらしいだろうよ。無責任なラグボーが死んでから、どんな扱いを受けたか目に見える」
「お黙り!」
ソルはその通り蒼白になって叫んだ。
「ラグボーさまのことを悪く言うんじゃない、この殺人娘が!おまえ、チエダのことを忘れたとは言わないだろうね」
ケーナの耳に、耳障りな音が届いた。イチエの歯軋りだった。
「イチエ。チエダとはどなたですの」
「死んだ子供さ」
ソルと睨みあったまま、イチエが絞るように言った。
「殺されたのさ、イチエダにね。チエダは可愛らしい子だった……最期は全身こんな風になっていたがね」
イチエのただれた右手をわしづかみにして、ソルはため息をついた。そして突如、勝ち誇ったように高笑いをした。
「なんだ婆」
「イチエダ、おまえ、毒薬を割ったね。どうやって自決するつもりか知らないが、安楽死は望めなくなったわけだ。別れの記しだ、このあたしが殺ってやろうじゃないのさ」
「残念だな、これはソル婆、あんたのさ!あたしは別に持っている。これはさっきあんたの手から取ったやつだよ。殺られるのはあんたさ。安心しろ、少しでも長く生きられるよう、肺に穴をあけてチューブで殺ってやるよ」
「……おまえというやつは」
 ケーナは会話の残酷さに、思わず耳ではなく口をふさいだ。吐き気があった。
 ソルとイチエは祖母と孫ほどに年が離れているくせに、昔から仲が悪いのだ。だが殺る殺られるという話まで発展したのは、彼女が知る限り今日が初めてだった。
「ああ、ソル婆、そんなに冥土の土産がほしいか。このみんなを道連れにしてもまだ足りないのか。あたしの中には今、何人殺っても充分なほどの殺気が漲っている。どうだ」
「……何がだい」
「名誉じゃないか。あたしはドーンの兵なんかよりあんたに近いんだから。それに学があって、しかもグヮン姓だ」
「お黙り!恥知らずな!」
さっと青くなってソルはイチエの横面をひっぱたいた。そしてぱっとケーナを振り返った。
 ……グヮン姓―――軍人なのか。このイチエが。
 ケーナはとっさに知らぬ振りをし、無邪気な顔を作った。
「い、いきなりどういたしましたの」
「何でもない」
ぶすっとしてイチエが言った。

 ソルは、覚悟を決めるようにケーナ以外の皆に言った。そして三十分の最後の自由時間を与えた。本人は眠るように目を瞑って瞑想していた。



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