1章 , ダスタールの煉獄 006
 「ひとつ尋ねてもいいかな、ミス=グヮン=ロー」
「生者はいるかと言う質問なら言っておく。この貧民街は全滅した。二回目の爆発でもやられなかった奴らは、皆ひとつにたまっていたんだ。でもあたしを除いて全員自決した。だから生き残った奴はあたしだけだ」
「自決」
息を呑む音に、イチエはせせら笑い、赤くただれた右手を差し出した。
「自ら火の点くほどの猛毒。常時携帯していたんだ、あたしたちは。殺されるよりましだと言ってさ。ちなみにこれをあたしらに配給したのは、死んだクラウス=デュン=ラグボーだ」
「クラウス=デュン=ラグボー……あの……」
 ファスは超能力者ではなかったから、イチエの思想について、この時点で理解することは不可能だった。
だがファスは職務に忠実な軍人ではない。その点でわずかにイチエと通じるものがある。互いの微妙な発音に含まれる感情が、互いを刺激した。
「あ、そうだ、ラグボーといやあさっきのお嬢さん」
キルフェイスが、この場に不似合いな声をあげた。
 イチエは無反応だった。片方の眉がわずかに内側へ移動しただけだった。
「アリアドニ=デュン=ラグボー嬢。君、知っているか。こちらから歩いてきたのだが」
「そんな名前の奴は知らない」
キルフェイスは、そうか、と呟き、遠くの爆音に体を揺らした。
「違う名前の奴は知っているのかい」
 言ったのはファスだった。
イチエは両眉を寄せた。そしてただれている右手をけなすように見つめると、そのまま崩れかけた壁にそれを打ちつけた。
 何かがはずれるような、妙な音がした。キルフェイスがぎょっとして唾を飲み込む。
「……さっきまでここにいたのは、ナザロ=ラベルだよ」
 そのことについて、イチエはそれ以上何も言おうとはしなかったし、ファスもキルフェイスも何も尋ねようとはしなかった。
 キルフェイスはまた職務に忠実な軍人に戻り、二、三イチエに事務的な質問を浴びせた。多少ぶっきらぼうだったが、イチエは過不足なく答えた。そして最後の何気ない質問の答えに、ファスとキルフェイスは腰を抜かすほど驚いた。
「ケーナ=デュン=イーダ嬢が亡くなっただと?」
イチエは怪訝そうな顔でうなずいた。
「信じられないのか?死体なら、ほら、それだ」
指差す先に、よく見れば、確かに他の死体とは違う特徴が見られた。
 まず髪が梳いてあった痕跡。破れてはいるが元は高価そうなワンピース。腕に抱えたバスケット。しゃれた靴。何よりイチエらのように痩せていない。
「これは……」
「一大事ですね……大変な」
 后候補が死んだ。
必然的に、后には対候補の娘がなるだろう。
 だがそのもう一人の后候補は先ほどまでここにいたのだ。
「ミス=グヮン=ロー、一度来てもらわなければいけないが……君はこれからどうするんだね」
周りを見渡して、キルフェイスは眉をひそめた。三六〇度、すっきり一キロ先が見えるほどだ。
「知るか。これから、明日、未来、そんなもん考えていたら今生きていけないさ」
「でもこの貧民街ではもう暮らせないぞ」
「それはあんたの見識だ。ここは、子供さえ本物の爆弾を常備しているところだ。派手に転んだら割れて爆発、破壊力は建物一つ分。爆発なんてしょっちゅうさ。そのたんび、何とか暮らせるようになるまで建て直しをする。あたしだってできないことはない」
「だが一人だ」
「屋根がないと眠れないわけじゃない。数週間くらいそこいらで寝るさ」
『そこいら』には死体がごまんと存在する。すぐにでも腐臭が発生するだろう。
「君、ここにはすぐに、ここら一帯管轄の軍人らが来る。わたしらは関係がないから、くるまえに君を保護することができるんだが」
「嘘をつけ、あんたら軍人だろ」
「たまたまそのへんにいたんだよ、ここへきたのは偶然と興味だ。いいか、任務に忠実になるとしたら、君をここからどこかへ連れて行くことになる。そういう場所があるんだ」
「牢か」
「違う。そういう場所があるんだ―――いや、その前に病院かもしれん。とにかく君をここに置いておくわけにはいかないんだ」
キルフェイスはしゃがみこんでイチエの瞳を見ていたが、イチエは素っ気なかった。
「あたしはそんなこと望まない」
「分かった。ミス=グヮン=ロー、聞いてくれないかな。君は、現在の王家を中心とする事情について知っているかい?」
ファスは、フィオというひねくれた弟と二人暮しだ。キルフェイスよりは言葉巧みである。
「……興味がなかった」
「そうだろうな。わたしも興味なんぞない。だけど知っていないと困ることというのはあるんだ。ミス=グヮン=ロー、現在の王は子供の頃即位したからまだ若い。それで后候補というのが存在する。もちろんそれは金持ちで有名で、名にデュンを持つ者じゃないといけない」
イチエは察しが早かった。
「ケーナ=デュン=イーダがそうだったと言いたいのか」
「ご名答だ。だがもう一人いる。タズ=グヮン=ロー、驚かないで聞いてほしい。アリアドニ=デュン=ラグボーがそうなんだ」
イチエは思わず壁についていた片手を離した。バランスをくずして勢いよく座り込む。
「ラグボー……ラグボー家には何人娘がいるんだ」
「一人だ。分かるだろう、この貧民街出身の、さっきのお嬢さんなんだよ」
イチエは、二人が来てから初めて表情を変化させた。
 痛い表情だ。
「嘘をつけ。貧民街出身のナザロが……アリ―――アドニ? デュン=ラグボーが、候補なんかになれるはずがない」
「そう思うだろう。だけどね、王は平等という言葉をモットーにしているらしくてね。それなら貧民街へ行って、そこにいるデュンじゃない少女を連れてこればいいじゃないかとわたしは思うんだが。とにかくそれでアリアドニ嬢は候補に加えられたんだ。公表された当初は画期的なことで、猛反発も起きた。彼女はなかなか美しいんだろう」
たっぷり一分は沈黙があった。
一分後、イチエは全て消化したように、暗いが納得した顔をしてもう一度立ち上がった。
「だからケーナ=デュン=イーダはここへ来ていたんだ?イメージを作るためにか。そうだとすると、双方と知り合いのあたしは意外にすごい人物ということになるのか。だけど中佐、それとここで暮らすのに何が関係ある?」
「君は要注意人物になるだろう」
ファスはきっぱり言った。
「ケーナ嬢が死んだとき、たった一人生きていた。それだけでも重要参考人だ。君は後ろ盾もないから、もしイーダ家が何か罪を被せようとしたら反抗の手立てはない。しかもそのすぐ後にアリアドニ嬢と接触している。おそらく彼女は屋敷を抜け出してきたんだろう? そうだ、イーダ家にはもう一人娘がいたから、もしかしたらイーダ家はラグボー家に罪を被せてもう一度候補を狙うかもしれないよ。そうしたら君は証人にさせられてしまう。もちろんラグボー家は君を狙うだろう。どっちにしろ君は危うい立場だね」
「……」
イチエは目を白黒させてファスの顔を眺めていた。持ち前の頭の良さで唐突に理解したが、それでも十言われて十理解できるわけではなかったのだ。
「……あたしは殺される?」
「そうだな、運が悪ければな」
「運が良かったら今ここにはいないさ。いい、分かった。死んだら元も子もない。生きなきゃ意味がないんだ。准将、中佐、どこでもいいからあたしを連れて行ってくれ―――いや、ください」
イチエは今度こそしっかり頭を下げた。片足を浮かして、腰から曲げた。
「……義兄さん」
「何だ」
ファスはそのイチエの姿に目をとめて、唐突にキルフェイスに声をかけた。
「姉さんは元気ですか」
「何をいきなり」
背を向けたまま、
「それじゃ、この子を一日預かってください」
「……何だと」
「自分で言っていて気付きました。病院、もちろんダスタールの国立病院のことですが、あそこは危険です。何とかっていう、確かクラウス=デュン=ラグボーの又従兄弟にあたる奴がいました。ギャンザツェター内の国立病院じゃどこでも同じだ。筒抜けですよ。わたしが明日までに、知り合いの病院に話をつけておきます」
「おまえに医者の知り合いなんていたか」
「どうにかしますよ」
「しかしだな――預かるって言っても、一日、この傷のまま、うちで寝かせて置けというのか?」
「致命傷ではないです、命は大丈夫だと思いますよ。応急処置だけお願いします。ただし義兄さんいいですか、姉さんに触らせたらこの子は死にますよ―――随分前にフィオが一度、睡眠薬の量を間違えて飲まされてあわやということがあります―――さあ、一日だけです、わたしが戻るまでは、フィオに協力してもらってください。よろしくお願いします」
このあいだ、イチエはぎらぎらと睨みながら、ふたりを見比べていた。
 ファスは話が終わると、軽くしゃがんで、イチエと視線を合わせた。
「……なんだ」
「ミス=グヮン=ロー。生き残ったからには、これからは本当の軍人として生きるんだ」
「言われるまでもあるもんか」
 イチエはファスの言葉を遮って、血のまじった唾を吐く。そして苦しそうに軽く唸った。
その様子を見て、キルフェイスが瞳を細めた。何か哀れなものを見たように、切ない顔になる。
 数秒後、彼はどっこいしょとイチエを背負った。彼女は荒い息で、抵抗せずに、ぼろ服に包まれた身体を彼に預けた。
数歩歩いて、彼は振り返った。
「おい、生き残れよ。最後は老衰死だ。せめて孫の顔を見てから死ぬことだな」
「じゃ、子供を産む前に孫を産まなきゃ間に合いそうもありませんね」
ファスの皮肉に、キルフェイスは苦笑して、イチエを連れ今度はそのまま歩き去った。ファスはその後ろ姿に一つ敬礼をすると、街へ歩いていった。彼には、ケーナ=デュン=イーダ嬢の死亡伝達という成すべき仕事があった。


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