その夜、バチーダが予言したように、ドッドラから谷の人間全員に召集がかかった。
バキラは無表情のまま男たちを呼んで、バチーダを移動させた。バチーダはもう何も言わなかった。バキラも何も言わなかった。おかげでバキラはこの男たちと話すまで、あれから一言も声を発していなかった。
バチーダを連れて広場についたときには、すでに松明があちこちに掲げられ、神殿の一部がそっくりうつったように上段がもうけられ、ドッドラが後ろを向いて座っていた。下部には、谷の人間全員が、綺麗に集まって座っている。マルバの名を持つ女たちはその最前列に神妙な顔をして座っていた。
そして東には仕切りがあり、その向こうがざわついているのが分かった。あれが谷にきた異質な人間どもなのかと、バキラは冷ややかに見つめた。数にして十数人。影しか見えなかった。その仕切りを見張るように、五人の男が立っていた。
「兄を」
男たちにそう言って任せると、バキラはアドモナーチの隣に滑り込んだ。マルバの少女たちはみな、落ち着いて胡坐をかき、ぶつぶつ口の中で唱えながら、何かが始まるのを待っている。
それから、月が少し動くのを待った。
「お静かに」
神殿に仕える、マルバの名を持たないたくさんの女が、一斉に口を動かした。
「時の神の愛娘、ドッドラ・マルバ・ブンプルーン様より御言葉がございます」
ドッドラは振り返った。
憔悴していた。明らかにそれが分かった。頬の横で切りそろえた髪は美しく整っていたが、頬の赤みは失せ、化粧によって補っているのが傍目にも分かった。目も落ち窪んでいたが、逆にそれが彼女を神がかっているように見せ、恐ろしかった。
自然に全員が立つ。谷の人間全てが一斉に立つと、まるで風が通ったような音がした。
深く礼をする。本来なら、こののち許しのあと座り、幾人かが儀式的な言葉を述べ、ドッドラが言葉を発するのは最後のはずだった。
しかし彼女は全ての慣習を打ち破って、まだ礼をしている最中に、荒々しく言葉を始めた。異例のことだった。
「その者どもは、最後に現れし本物の客なんぞではない」
バキラの隣で、アドモナーチが顎をあげた。
「ただの侵入者だ。恥を知れ、この時の神の土地に迷い込んだ、哀れな人間どもめ」
ドッドラの身体から、おそろしい怒りが感じられる。
バキラでさえ、その空気を読むことが可能だった。ベズナ、ドシー、カビア、ゲーネ、アドモナーチ。バキラと同じ年代のマルバの名を持つ少女たちは、頭を土につけて祈っている。
「ドッドラ様におたずね申し上げます」
立ち上がったのはパチューシャ・マルバだった。二十すぎほどの綺麗な女で、清めと祓いの娘として、谷の人間の一切の穢れを引き受ける。
「谷の封印を破ることができるのは、元々が谷の人間であったお客、そして最後に現れし本物のお客、と限られております。その双方ともが違うのならば、この者たちはなぜここに存在することができましょう」
パチューシャの静かな声は、谷の人間全員の疑問と同じだった。
ドッドラは勢いよく立ち上がった。もはや怒りは呪いとなってその身体から滲み出ている。
「恥を知るのは谷の巫女。立つのだ、マルバの名を持つ女たちよ」
命令を受け、険しい形相で、幾人かの女がさっと立ち上がった。バキラも条件反射のように起立した。
マルバの名は、生まれたときにつけられる。そして死ぬまでマルバである。
長老ザヌビャリャから、四十ほどのまとめ役ソユガム、このあいだ生まれたばかりのパチューシャの子、ルダまで、すべてのマルバの名を持つ女がドッドラを見上げた。
「時の神が、怒りも顕にわたしに語りかけている。谷の封印は中から解かれた!この者どもは偶然ここへ落ちてきた。おもてを上げ、神に謝罪するのだ!その者こそ、この人間どもが求めている人材となりうる。さあ名乗り出よ、昨夜、谷の封印を解いたのは誰か!」
群集は一瞬ざわついた。
マルバの女たちはお互いに顔を見合わせ、次にドッドラを仰ぎ見、口々に自分の無実を口で証明し始めた。
バキラはその中で、事態の重さを量りかねて、呆然として立っていた。封印を破る?そんなことができるということさえ知らなかった。昨夜、闇を動かしたことは事実だけれども、封印を破るなんて!そんな大それたことが、マルバの中で最も力のないこのバキラにできるはずがない。では誰だろう?マルバたちのなかで、そんなことができる者がいたか。
バキラにはどう考えても、それが可能なのはドッドラにしか思えなかった。
「名乗ることが不可能ならば、知っているものがその者を晒せ」
ドッドラが加えて命令した。
そのときだった。
「わたし、知っているわ」
調子の外れた高い音を発して、少女の大声が響き渡った。
群衆はさっと声のしたほうに顔を向けて静寂を作った。バキラも驚いて見つめた。それはあの鎮めの娘、ベズナ・マルバだった。青白い顔をしていたが、気丈にも立って話している。いつ意識を戻したのか、そういえば聞いていなかった。
「わたし、知っているわ……昨夜から封印を破ったマルバを」
ドッドラが大きな音を立てて杯を投げ割った。酒と破片が飛び散って散乱した。
「言え。その者には自覚がない。時の神から与えられた使命を理解していないのだ」
ベズナは一瞬口ごもった。
「ベズナ・マルバ・ダーハヤメラ、言わぬならわたしからその名を呟く」
「言いますわ!わたしがその罪深き者を晒しましょう、時の神よ」
後半は彼女の祈りだった。
やがて谷に大いなる静寂が訪れた。風が吼え、空が哭き、地が喚き、そして時が過ぎゆく。
そしてとうとう一言が発せられた。
「バキラ、あなただわ……」
ベズナが震える声を出して言った。
そのかそけき声は、静寂の中、反響するほどよく響き渡った。
「あなたは昨夜、卜者さまを介してわたしにこれを預けたのだわ」
べズナは手を小刻みにさせながら、袖から細く編んだ腕輪を取り出し、それを高くあげた。
「これは谷を封じる……谷の人間のすべてで作る大きな封印なのに……それをバキラはこうして預けている」
その途端、バキラは集落中が敵に回ったのを感じた。
数多の視線が自身に注がれるのが分かる。それ全て、好意のものではなかった。
「――お客人、お探しなのはこの娘でしょう……」
「――バキラ・マルバ・シドゥヌガという、火と鬨の娘でございます……」
バキラはそれから起こる出来事とその言葉全てを、記憶の彼方で聞いていた。