「バキラ!」
小屋の入り口から数歩駆け出した彼女に声が掛かった。
振り返ると、カビア・マルバとドシー・マルバがこちらへ駆けてくるところだった。ふたりとも今にも泣きそうな顔をしている。
「何があったの?この胸騒ぎは何?谷中がひっくり返ったようだわ。小さい頃、神殿からドッドラが消えたときでさえ、ここまでではなかったわ」
「バキラ、あなた訳を知っているならば教えて頂戴」
バキラにしがみつく。
少女はいやに冷めた瞳をしてふたりを見つめていた。
「大騒ぎなのは神殿より向こう側だわ」
カビアとドシーはそろって眉をあげた。
「さあこの辺りをぐるっと見渡して御覧。何の物音もしない、のどかで、いつも通りだわ。どこも騒いでなどいないじゃないの。なぜあなたたちは何かが起きたと分かるの?」
ふたりは目をぱちくりさせた。
「あなたには分からないというの?バキラ」
バキラは一瞬つまったが、吹っ切ったように大きく頷いた。
「分からないわ。あたしには分からないわ」
「だって……バキラはマルバよね」
「バキラ・マルバ・シドゥヌガよ」
「ではどうして分からないの?何か感じるでしょう?」
バキラはうんざりしてふたりを見た。蔑まれているような気がした。何故何も感じることができないのか、バチーダにも分からないことが、彼女に分かるはずなかった。
「でもバキラはマルバよ。ザヌビャリャ様が、バキラが生まれたとき、確かにマルバだと言ったわ、覚えているもの」
「どうして!」
バキラは叫んだ。
「覚えているなんて!どうしてよ。あたしたち同い年よ。あんたのほうが数週間先だったというだけよ。生まれた頃の出来事なんか、どうして覚えているというのよ」
「……あなたは覚えていないの?」
カビアが静かにたずねた。
「マルバなのに?他の女と同じように、記憶を消されているというの?」
ドシーは一歩下がって、まじまじとバキラを見つめていた。
それは彼女らが、谷の中心部を遠く囲って住む、マルバの名を持たない女を見るときと同じ目だった。
バキラはたまらずに視線をそらして、ぼそぼそと呟いた。
「……あたしは大したこと知らないわ。アドモナーチと歩いていたらドッドラが駆けてきたの。それを止めたら、人影が見えると言ったのよ。『最後に現れし本物の』お客さんだと」
「ああ、その通りだわ」
「異臭がすると思っていたもの、その通りなのね」
ふたりは激しく頷きあった。
「では伝説が終わるということ?マルバの祖父が谷へきたのね?この谷はどうなるのかしら」
「でもこれで本物のマルバが分かるのじゃないの。彼と結ばれるのがマルバだわ。誰かしら、年齢的に丁度わたしたちだわ」
「ではやはりドッドラが?」
「馬鹿言いなさい、ドッドラは神と結ばれているから違うわ。わたし、ドシー、バキラ、それからベズナ、ゲーネ、アドモナーチ。この中で一番年上はアドモナーチだけど、彼女より上のマルバは既に男と結ばれている。パチューシャがそうだもの。ソユガムはひとりだけど、もう年が違うわ。一番下はベズナだけど、それより下となるとまだ十になるかならないかのチャンだから、選択肢には入らないわね。やはりこの六人の誰かが本物のマルバなんだわ」
「そんなうそみたいな話、信じられないわ、カビア」
ドシーが唖然として口をぱくぱくさせていた。
バキラは黙っていた。バチーダが侵入者だと言ったことを伝えるべきか迷った。
「……とにかく、もうすぐドッドラから召集がかかる気がするわ。それまではそれぞれ小屋で家族と一緒に待機するのが一番だと思うわ、そうでしょう」
「わかったわ」
カビアが頷いた。
バキラはこのふたりといるのを苦痛に感じ始めていた。軽く顎でふたりを流して、後ろ足で数歩下がって、彼女の小屋の扉に後ろから手をかけた。さっきバチーダに反抗して飛び出したが、やはり小屋を出たら、そこ以上にバキラを求める場所などどこにもないのだった。
「待って、バキラ、最後にひとつ教えてほしいの」
だがカビアが背を向けたというのに、ドシーが彼女の服の端を掴んで待ったをかけた。
バキラは眉を顰めてドシーを見た。彼女は早く小屋に戻って何もしないでぼんやりとしていたかった。
「バチーダは……バチーダはどのような容態なの」
カビアが綺麗に口笛を吹いた。
バキラはドシーを凝視していた。突然、ドシーがおそろしく汚れた存在に思えてきて、もしカビアが近くにいなかったら、殴りかかって殺すまで離さなかったかもしれなかった。
バキラは無言で小屋へ戻って、扉を閉めた。そして、今朝アドモナーチとゲーネが笑ったことを思い出して、内側からバチーダの書物を積み上げて、それが天井へ届くまで、その作業をやめなかった。