目指す相手の姿が見えたのは、先ほどいた場所と地理上で対称となる井戸のまわりだった。彼女は外側の女たちに、何か説教をしているところだった。
「ソユガム!」
バキラの大声は、荒い息と喉の消耗のせいでけして大声にはならなかったが、彼女はそのかすれ声に振り向いた。
きりりとした顔立ちの、四十すぎほどの女である。美しくはなく、額には深いしわが刻まれ、口はいつでも一文字を描いている。
ドッドラや神殿、そして長老ザヌビャリャの命をうけて谷をまとめ、マルバの少女たちの相談役、すべての裁判の判断を下すのが、このソユガムであった。
「何です、バキラ。マルバの名を持つ者ともあろうあなたが、走るなんてみっともない」
バキラは荒い息のまま、勢いで話し出した。
「呼んでくるように頼まれたの。あとザヌビャリャ様や、男たちも。ソユガム、あたしにはわからない。アドモナーチと歩いていたらドッドラが走ってきたのよ。あたしなんかよりずっと恐ろしい速さだったわ。彼女を罰するといいわ、そして神殿も。ドッドラを走らせるなんて、神殿の女は何をしているのか」
ソユガムは目を見開いてこちらを見ていた。
「最後まで言いなさいバキラ、重要なことだわ。何があったの」
「慌ててアドモナーチがドッドラを無理矢理引きとめたわ、そうしたら……そうしたら、人影が、とドッドラが呟いた」
バキラのうしろで風が吼えた。
バキラは同じ場所に立ったまま、両手を口元に当てて、無我夢中で駆け去っていくソユガムに叫び続けた。
「そうしたらアドモナーチが言ったの、自分にも見えると。あたしには見えないと。人影は『最後に現れし本物の』お客さんだと言ったの!」
「もういいわバキラ!あなたは小屋へ戻ってバチーダのところへいきなさい!召集がかかるまで、小屋から出るんじゃありませんよ、バチーダの言うことをききなさい!」
女たちは悲鳴を漏らしながら、散り散りに駆けていく。
バキラは井戸にひとり残され、やがて視界の先に誰一人として人影が見えなくなってから、思い出したように震え上がり、何も分からないまま小屋へ駆け戻った。
勢いよく扉をあけ、静まり返った小屋に不安を覚えて、バキラはずかずかとバチーダの寝台のある奥へ足を踏み入れた。
バチーダはほとんどいつも通り、潰れた足を放り出して、背中を起こした姿勢で、何か書物を読んでいた。
「兄さん」
声を出そうとして、バキラは自分の喉が水分で塞がっているのに気が付いた。彼女は泣いているのだった。
「兄さん大変よ、大変なことが起きたようだわ」
「静かにしなさい」
バチーダは泣いている妹を引き寄せて、寝台の隣へ跪かせたまま頭をなでた。
「ソユガムのところへ行ったのかい?」
「行けなかったわ。でも、でも行ったわ。兄さん、この谷は……谷は」
「言わなくともいいよ、バキラ。分かっている」
バチーダは苦い顔をしていた。そしてその矛先は、バキラに向けられていた。
「バキラ、わたしには感じられる。侵入者がこの谷へやってきたね」
彼女は顔を上げた。
「侵入者……?アドモナーチはお客さんだと言っていたわ。『最後に現れし本物の』お客さん、だからこそ、ソユガムまで走るんだわ」
「彼らが伝説の彼らではないということは、すぐに分かるだろう。アドモナーチがそう言ったのだね?ドッドラはそうとは言わなかっただろう」
バキラは少し考えた。バチーダは、妹の返事を待っている様子はなかった。
「必ずドッドラが出てきて言うだろう。彼らは侵入者だ」
バキラはもう考えるのをやめた。考えるのは彼女の仕事ではなかった。そしておそらく他の女と同様に、嘆くことを始めた。
「いつもと同じ朝だったわ。いつもと同じように歩いていたのに。きっと今、神殿は大騒ぎだわ。いつもと同じなのに。何も変わった気がしないのに、きっと神殿じゃ、大騒ぎなんだわ。だってドッドラが走るのよ」
「なんだって?」
普段落ち着いているバチーダだが、このバキラの独白をきいて、少し声色を変えた。
バキラは久しぶりに、兄が驚いているのを見た。
「おまえはこの違和感を理解しないのかい」
「違和感?」
「谷の……周りの人間ではなく、中心部に住む人間ならばわかるだろう。何か異質なものを感じるだろう。おまえはやはり何も感じないと言うのか?」
彼は静かに尋ねた。
とうとうこの時がきたか、というような、苦しそうで辛い、そんな表情をしていた。
「ええ、感じないわ。あたしには分からないわ。何もかもいつも通りだわ、兄さん」
バキラは何も考えずに答えた。
彼女は自分を蔑まれるのに慣れていなかった。呆れられることなどなかった。生まれてすぐ、長老ザヌビャリャにマルバの名を許可してもらってから、それは定められた運命だった。
バチーダは頭を抱えた。
「おまえは何故マルバなのだ。何によってマルバと判断されたのだ。マルバの能力をなにひとつ持っていないおまえが。わたしでも分かるこの異物感さえ感じないおまえが。それは異端だ、おそろしいことだよ、バキラ。昔から時々不安になることはあったが、まさかこの歳になって明らかになるとは。よく今まで隠し通せてきたものだ。おまえが与えられたこの豊かな生活は、マルバの名の元に成り立っているというのに。おまえはもうこの生活で生きていくことは許されまい。だがこの生活を捨てて生きていけることもできまい」
バキラのうわべの涙はとうに枯れ果てて、その瞳には強い意志が宿っている。
「能力が何もない?」
バキラは兄の言葉を反芻した。
「兄さん、あたしは火と鬨の娘だわ」
「鬨の声は誰にでもあげられる。炎の前で踊るのはさらに誰でもできることだ、そうじゃないか」
「でもあたし一度だけなら……予知夢を見たことがあるわ」
「わたしは予知夢しか見たことがない、バキラ」
それは強い調子で、バキラは押し黙ることしか出来なかった。
「昨夜わたしは夢を見た。わたしひとり、この家に寝ているのだ。そこへドシー・マルバがやってくる、このわたしの元に」
「ドシー?なぜドシー?兄さんの元にいるのはバキラ・マルバよ。あたしはずっと兄さんの側にいるわ。なぜあたしを追い出すというの?」
「わたしが追い出すのではないよ、バキラ」
バチーダは悲しげな顔をした。
「おまえが悪夢を呼ぶのだ。やはり昨夜、闇を動かさずに寝ていればよかったものを。おまえはなにか罪深き失態をやらかしたのだろう。おまえにとって何が最善なのか、わたしにはわからない。或いはこの谷から消え去るほうが、おまえにとっての幸せかもしれない」
「そんな……あたし何もしていない。ほんとよ。兄さんが信じてくれないなら、あたしはもうこの谷に味方がいなくなるわ」
バキラは叫んだ。
バチーダは暫く、この外見の美しい妹を見つめていたが、その瞳に無知の強さを読み取って、ため息をついて顔を背けた。
それが最後だった。バキラにとって、それは完全なる裏切りであった。
バキラは小屋から飛び出した。