序章 006

 バキラは目を細め、遠く動く影を見つめた。
「見えないわ」
「いいえ、あれはドッドラだわ。なんであんなに急いでいるのかしら。彼女、マルバの中でもいちばん心が重いのに。神殿にいなきゃ」
「何かに中ったんじゃないかしら」
「川は反対側よ。冗談はよしてよ、バキラ」
不安そうな声をだす。
「何かいやなことが起こったのかしら」
「ドッドラだってたまには走ったりするわ。アドモナーチは心配性なのよ」
「いいえ、バキラが楽観すぎなのよ。わからないのよ、わたしたちのなかで、バキラが一番心が軽いのだから。この敏感に何かを察知する肌が……ああ、やっぱり彼女だわ」
 その頃になると、バキラにも顔の判別がついた。
確かにドッドラだった。体中の装飾品をじゃらじゃらと揺らして、額と頬に描いた化粧を汗で滲ませながら、転がるように駆けてくる。
 アドモナーチは駆け出した。つられてバキラも後を追った。彼女は勇敢にも疾走してくるドッドラの前に立ちはだかり、彼女を全身で受け止めた。
「ドッドラ、何故こんなところにいるの」
 年齢の割りに身体の小さいドッドラは、アドモナーチの腕にすっぽりと納まってふらついたが、すぐに落ち着く気配はなかった。
「険しい顔をしているわ、ドッドラ、大丈夫なの?」
「アドモナーチ、この手を離せ。わたしは行かなくては」
「待ってドッドラ、離さないわ。わけを話して……闇雲に走ってはだめよ。汗をかいているわ、あなたはそんなことをしてはいけないの、わかるでしょう?」
 鎮めの娘アドモナーチがその腕にきつく抱くと、ドッドラは荒い息とぎらぎらした瞳を多少落ち着かせた。
 耳の下で切りそろえた栗色の髪が暴れている。体中から熱を発して、おそろしく体力を消耗していた。神殿から走ってきたようだった。
「あなたの願いはわたしたちの願いだわ。さあ言ってドッドラ、何があなたを走らせたの?わたしとバキラにどうしてほしい?」
 ドッドラは瞳をあげた。
 夜の野獣の咆哮によく似た声が、口から単語となってもれる。

「――人影が」

彼女はひどく焦っていた。
アドモナーチの顔色がさっと変わった。
「バキラ、ソユガムを呼んでくるのよ、急いで。それからザヌビャリャ様と、男たちにも知らせるのよ」
「何を?」
「お客さんだわ、そう……わたしにも見えるわ。ねえ、目を細めたってあなたには見えやしないわよバキラ。そんなことより急いで走るのよ。ただのお客さんじゃないわ。ええそうよ、『最後に現れし本物の』お客さんよ。谷のにおいがしないのだもの」

 
バキラは走った。闇雲にただ走るしかなかった。
 水瓶も何もかも捨てて、両腕を前後に振って、ひた走った。生まれてからこれより、こんなに必死に走ったことなどなかった。
いつだって谷では、マルバの名を持たない女たちが、バキラの代わりに必死に生きることをしてくれていた。
 しかし、ああ、『最後に現れし本物の』。この言葉には、マルバの名を持つ少女として、条件反射のように身体が焦るよう、幼い頃から叩き込まれていた。それは幸運なのか、不吉の影なのか、バキラにはよく分からない。
――ただ、何度も聞かされていた。
 谷の伝説。
 開く大地の伝説。マルバは自分の祖父と結婚し、父親を生み、でもその父親から生まれ、また祖父と結婚し、その時の輪を永遠に繰り返して生きていた女。
 谷と共に生きている。谷はマルバを求め、本物のマルバを待っている。生まれた赤子が谷の力を持つ血の濃い女の子ならば必ずマルバと名付けて。
 そしてマルバを待つことは同時に、彼女の祖父を待つことでもあった。
 だから、谷はマルバの祖父が開く大地を求めて彷徨ってくるのをも待っている。普段、谷は閉鎖されていて、ただの旅人には時の谷は見ることができない。外からこの谷へ入ってこられるのは、かつて谷を追い出された追放者、もともと谷の人間だった、マルバの血を引いているものに限られる。しかしマルバの祖父は、まったく別の村からでて、その深い封印を破って入ってくる。すなわち『最後に現れし本物の』お客さんと呼ぶのだ。



005<<  >>007

← back to index