翌日の朝は早く訪れた。
バキラの五つ離れた兄、バチーダは寝たきりである。幼い頃に両足をつぶして歩めぬ人となった。それからはたったひとりの家族であるバキラが朝から晩までバチーダの世話もこなす。祖父母も両親も、気付いたときにはいなかった。バキラは兄と谷に育てられた。
この朝も、谷に生きる様々な動物の鳴き声に起こされて、バキラは目を覚ました。
「おはよう兄さん」
壁の一部の板をずらして朝日を差し込み、寝台を照らすと、バチーダは身動きをした。
「快適な朝だわ。素敵な天気よ、雲ひとつないわ」
谷の神である「時」に軽く祈りを捧げる。
「水を汲みに行ってきます。今朝はチャンのところで絞めた鳥を分けてもらうからスープにするわ」
「帰りにソユガムに会いに行きなさい。昨夜言ったことを覚えているね?パチューシャのところへゆくのなら、わたしもついてゆくから一度戻ってくるのだ」
「なに?」
バキラは眉を顰めた。
バチーダは足が潰れている。移動することはできない。谷の女も、長老ザヌビャリャでさえも、彼と話す時は彼の寝室に赴かねばならない。
だが万人にそれをさせてしまう、一種の特殊な人柄が、彼には生まれつき備わっていた。穏やかで、聡明で、男だがマルバの血がどう巡ったのかマルバの女のように時を読む。
だから彼は常に寝台の上にいた。ごくたまに、幾年かに一度の谷の神聖なる祭りのときや、時の神の愛娘と呼ばれるマルバの名を持つ少女が神託を告げるときなどだけ、バキラが男たちを呼んできて手伝わせながら彼を家から出す。谷の真中の、神殿前の広場へ大きな椅子にのせて運ぶのだ。しかし今まで、広場以外の場所へ彼を運んだことはなかった。
「パチューシャのところへ兄さんを連れてゆくの?大変だわ、それは――そうなったらあたし、どうにかお願いして、パチューシャにきて頂くわ」
「言うことをきいてほしい、バキラ」
バチーダは、バキラと同じ榛色の瞳に強い意志を燃やして、彼女に深く訴えた。
「おまえのためにするのだよ。予感がするのだ。気をつけて行動しなさい、バキラ。この谷でわたしと暮らすという、この生活を崩したくないのなら」
バキラは頬を膨らませた。
「まるであたしが追放されるような言いぐさだわ?」
「バキラ、よく聞くのだ。チャンのところへいったらすぐに、必ずソユガムに会いに行くのだよ。昨夜のことを話しなさい。祭りが近いのはおまえも分かっているだろう。何せ祭りの鬨をあげ、大きな火を灯すのはおまえなのだから。昨夜は大事な夜だったのに――おまえは時を壊してしまったね」
「だって、それは卜者さまのせいで」
バキラは叩き起こされた被害者だ。
この卜者は勝手に谷中の小屋にあがりこみ、そしてそれを許可されている。長老ザヌビャリャが、いつかそれを許した。男のなかで唯一、時の神の足元に平伏すのが卜者とされていて、時折言葉が通じないのは、神の言葉を話すからだという。
「口ごたえはなしにしなさい。バキラ、必ず行くのだ」
「分かったわ。水とチャンの鳥をぶら提げながら、ソユガムの小屋へ寄ってきます。そしてパチューシャのところへゆくことになったら、必ず兄さんに言って、連れてゆくわ。それでいいでしょう」
水を汲む大きな瓶を荒々しく持ちあげながら、バキラが早口でそう言うと、バチーダは少し悲しそうな顔をした。
「それでいいとも。だがバキラ、わたしの妹よ、わたしの命。おまえのためを思っているのだということだけ、胸に留めておいておくれ。さあ、行きなさい。表でアドモナーチとゲーネがおまえを待っている」