わたしは空を飛ぶ | 砧の王様 | ギルティーキティー | もう一年も返事がない | あのころ |
わたしは空を飛ぶ | 東京湾に住む人魚のゆみこは、時々さみしくなって私を呼ぶ。 私はゆみこの話し相手だった。彼女の姉の咲木子さんがいつかそう頼んでから、ずっと。 咲木子さんは、妹がとうとう水に帰ってしまってから暫くして、わざわざ私の元へきて、 「三っちゃん、悪いけど、うちは自生子がああなって、東京湾とわかる前、実家のある岡山へ帰ることになったの。だから三っちゃん、時々自生子のところへいってあげてね。」 自生子は私の同級生だったが、二年前に留守番中に火事にあい、家は全焼した挙句、下半身を挟まれて脱出できずに大火傷を負った。そして自生子は、下半身を失って三日した晩に死の国の門をあけ、でも川を渡ることができなかった。泳ごうにも歩こうにも、両足がなかったから。 「咲木子さんが伝えてくれって」 ゆみこの視線は広くて、それが死者の目線なのかとも思ったけれども、それはそうではなくて、やはりゆみこだからなのだった。 だからゆみこ、そうだ。 席替えして窓側になって、授業中になんとなーく。
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砧の王様 | はるばる留萌から砧に引っ越してすぐ、まだ緑の多かった街中に、四田さんという表札が多いと気が付いた。うちの隣も四田さんだったし、はす向かいも四田さん。坂を下りればもう二軒、駅まで歩けばそれまでに七軒は見るだろう。しかもだいたい、豊かな自然に美しい池のあるようなお屋敷に、その表札がかかっているのだった。 「四田さんは砧の王よ」と母は言った。それでいて、四田さんの実態は誰も知らない。存在は謎のままで、母ももちろん父も、砧の王がどういう人物なのか何も知らなかった。 王様の顔も年齢も知らないくせに、父も母も王様の忠実な家来となるのだった。お向かいの飯野さんにアドバイスをもらって、必死の貢ぎもの。引越しの挨拶も、四田さんへだけ他の三倍はあった。 四田さんにペコペコすると何か良いことがあるのかと尋ねると、父は困った顔をしたが、クールな母は「ないわよ」と言い切った。だけど砧に住むなら砧の王にペコペコするのよ。郷に入っては郷に従えって言うでしょ。悪いことじゃないの、だって誰だって、アルゼンチンに行ったらアルゼンチンの大統領にペコペコするんだから。わたしたちは田舎者だから、都会の風習はまず真似しなきゃ生きていけないのよ。 そうしてわたしを責める。そういえばあんた、また友達と学校にお菓子持っていったんだって。学校行ってまでどうしてお菓子食べたいと思うの、ちゃんとお弁当あるじゃない。家ではお菓子、学校ではお弁当。わざわざはみ出すようなこと、しないで。 その夜も母が、信州の伯母から送られてきたリンゴのダンボールを切って、半分ほど私に持たせて四田さんに届けさせた。届けるといっても、王様に会えたことなど一度もなく、隣の四田さんのチャイムを鳴らすと顔を出す掃除婦さんに託すのだ。はす向かいの四田さんに誰かが住んでいる雰囲気はない。その日ももちろんそのつもりで、リンゴを抱え、つっかけで家を出た。肌寒い夜で、さっさと渡してすぐ帰ろうと道路に走った。端から四田さんに会うつもりなどなかった。下々の人間は、王様への謁見など望みもしないものだ。まして、リンゴ如きで。 そういうわけで、はす向かいの四田さんの門からちらりと明かりが見えたときは驚いた。明かりは揺れていて、どうやらランプの光だった。それが一瞬、ちらりと長い髪を映した。 「王女様だ」 思わず、指差す勢いのまま大声でそう言うと、明かりは大きく回ってわたしを照らした。目の高さにあがったので、王女様の顔が少しだけ見えた。 「小さい子、そこにいるの。今、わたしのことを何と言ったの」 ややハスキーで、綺麗な声だった。 「王女様です、砧の王女様」 「砧の王女?」 「四田さんは、砧の王だって、母が教えてくれました」 王女様は再び門を開けて、ゆっくりと近付き、わたしの目線に合わせてしゃがみこんだ。 「どこの子?お母さん、どこのおひと」 「あのう、わたし、はす向かいの入沢です。母から、リンゴを……おすそわけに」 「はす向かい。あそこか、あの柿の木のおうちね」 王女様は、うちを指差して言われた。 「リンゴか、ありがとう。以前、初秋に柿を頂いたでしょう。あの柿は……何というか、とってもシブかった」 手に持つ明かりがゆらゆらと揺れている。白雪姫の小人が持っているような、古いランプ。 「ごめんなさい。そうだ、食べる前に渡しちゃって、届けてから、シブ柿だって分かって、」 「いえいえ、だから干し柿にしたの、美味しくなった。まだあるから、食べていく」 王女様はそう言って、わたしを中に招いた。 王女様の名前は、杲子さん。 暫くここに住むという。以前はどこに住んでいたのかと聞いたら、柿の木坂の何丁目だと答えた。新しい図書館の向かい。豆大福が美味しい和菓子屋さんの隣。おひとりで暮らしていたんですか?ここへもおひとりでいらしたんですか。 「駒乃ちゃんのようなパパやママは、今のわたしにはいないの。」 初めて食べた干し柿は、うちの庭産ながら、あんまり好みの味ではなかった。 「じゃあ四田さんは杲子さんだけ?」 「ここに住んでいるのはわたしだけ。ここら一帯の四田には、ひとりずつ留守を預かっている家政婦さんがいるけども」 「じゃあ、じゃあ杲子さんは、王女様じゃなくて王様なんだ」 これは大発見だった。 杲子さんはおみやげに、いやに大量の干し柿を持たせて、わたしを門まで送った。暗闇に明かりを持ったままその手で手を振るので、明かりがぐらぐらと揺れて、わたしの目を回した。 そっと扉を開けてできるだけ静かにつっかけを脱いでいると、リンゴ届けるだけに何分かかったの、と母に目ざとく叱られた。砧の王に会ってきたのだと言うと、奇妙な表情を作って、曖昧に相槌を打つ。怒られはしなかった。 何を感じたらいいのか考える。わたしは不思議な気持ちで椅子を引いた。もしかしてこうして、狐は虎の威を借ることを覚えていく。わたしがもし、お向かいの飯野さんちの賢い芳ちゃんだったら、これに味をしめ様々な理由に王様の名前を出して説教を回避するだろう。わたしは小心者だから、そんなことできないけれども。でも国には、国の中枢には、芳ちゃんのお化けくらい図太い人間のほうが多いのだ。 新聞紙をわざと取らないで鍵をあけて、夕食後にテレビ欄を見ようとした母に頼まれて外に出る。夕刊を小脇に抱えて道路に出れば、明かりはいつも揺れていて、杲子さんはそこに立っていた。冬のにおいが微かに漂ってきたこの季節に、薄い服一枚で明かりをさげて、四田という表札の前に立つ。わたしはわざと下駄の音を高く響かせて少し歩いて、杲子さんが気付くのを待った。わたしを見つけると、杲子さんはいつも嬉しそうな顔をした。立ち姿にぼんやりと顎までを照らす光、白い肌、無地の服、長い髪なんかが、彼女をとても高貴に、人間でないもののように見せる。でも、時々晴れやかすぎる笑顔で少し強引に手渡される、アーモンドの缶やみかんの段ボール、明らかに近所の誰かから貢がれたらしき地域のおみやげ品やなんかが、杲子さんの存在を一気に人間に引き戻すのだった。 杲子さんが毎晩外で何をしているのか、尋ねることはできなかった。夜以外に彼女を見ることはなかったし、つまりもしあそこに毎晩明かりを携えて立っていてくれなくなってしまったら、わたしはもう砧の王様に謁見をのぞむ術がなくなるし、それは回避すべきできごとだった。 ただ拙いわたしの察するところ、杲子さんはよく道路を見ていた。おとなりの塀の煉瓦の数を気にしたりした。外に出てぼんやりとする明かりを見つけると、わたしは安心して走っていって、その持ち主が今何を見ているのか、少しだけ気にしていた。 ある夜のことだった。 「予言をしてあげようか。駒乃ちゃんは、いつかわたしを信じない」 王様は唐突に、明かりを下に置いて両手をふった。空があって、月の見えない晩だと思っていたら、薄く光っていた雲が偏西風で流されると、月は静かに笑っていた。 「信じない?」 「わたしが、駒乃ちゃんわたしよ、杲子よ、と言っても信じないでしょう。今日のような夜に」 「どうして。わたしは盲目ではないし、疑い深い性格でもないから、杲子さんを信じるでしょう」 「駒乃ちゃん。これは予言なの。性格の問題じゃなくて、心理の問題になる。この明かりをわたしが持っていなかったら、駒乃ちゃんは不安になる。今度やってみましょう。絶対、駒乃ちゃんはわたしを確かめるのよ」 果たしてその通りで、それから二週間ほどのちの晩に、暗い路地にぼうっと佇む人物を、わたしは杲子さんと確かめた。わたしは怖かったのだった。明かりを持たない王様は、ただの不審者かもしれないという不安をわたしに与えた。毎日毎日、同じ場所に立っていたのは杲子さん以外の誰でもなかったというのに。 それからまた二週間ほどたったある晩、王様は明かりの他にスーツケースまで持って、悠然と立っていた。それは煉瓦を数えるためではなく、わたしを待つためだけにそこにいた、という感じだった。 杲子さんはそして、わたしに別れを告げた。わたしは抵抗した。王様は、行かなければならないと微笑んだ。 「うーん、つまり、砧の王様は砧だけの王様じゃなかったというわけ。ブエノスアイレスだけがアルゼンチンじゃないのと同じ。アルゼンチンで一番偉い人は、ブエノスアイレスでも一番偉いけど、でもパンパス草原にいってもそこがアルゼンチンである限り一番偉いのよ。もうそろそろ他のところにも行かなきゃいけない」 「どうして行かなきゃいけないの。ここにいたらいけないの。他のところへいってどうするの」 「どうもしない。でも見て回らなきゃいけない。それが王様の唯一の仕事なの。王様は存在することが重要で、その仕事はただ見ること。でもそれしかできることはないから、一生懸命やりたいの」 スーツケースが地を離れた。わたしは焦った。 「では連れて行ってください。どこへゆくの?」 「どこへゆくにしたって、それがたとえ一歩だけ歩くのだって、わたしは誰かを連れていってあげるなんてそんな優しいことはしないの。わたしの肩に誰かの夢や希望をのせて、それで旅をするなんて、わたしは疲れてすぐに倒れてしまう。行くのは自分ひとりがいい。ひとりでどこかへ行ってごらん。応援はしてあげるから。忘れないでいてあげるから」 わたしはそんなことはできない。悲しいことだが、そんな勇気のある、そんな決断力のある人間には生まれなかった。 杲子さんは左手でスーツケースを持ち上げ、右手で明かりを持っていたが、おそらく虚しそうな顔をしていたのであろうわたしを見て慈悲の心を思ったのか、その右手を差し出した。わたしはその手にすがりついて引き止めたかった。しかし王様の狙いはそこではなくて、さげた明かりをわたしに与えたのだった。 「では駒乃ちゃんを後継者にしてからいくことにするわ。わたしがいなくなったら、駒乃ちゃんが砧の王様ね。この明かりをあげるから」 わたしは拒否した。 「わたしはだって、お向かいの飯野さんと変わらない。これを持っていたって、わたしはただのむすめであることに変わりはないから、」 「どうして。駒乃ちゃんはわたしを砧の王だと信じているけれど、わたしがいつかその明かりを持っていなかったら、信じなかった。つまりその明かりは持っていれば、駒野ちゃんだって砧の王」 「変な理屈に聞こえますも、」 「世の中の理屈に比べたら、ぜんぜん。」 わたしがまだ立っているうちに、王様は去っていった。 次の日は一日中ずっと、わたしの左手には明かりがぶらさがっていた。 まだ明るい昼間に、それはちっとも幻想的には映らない。大した価値のあるものには思えなかった。杲子さんが持っていたから、明かりは輝いて、何か王様のくんしょうのように映ったのだ。 とぼとぼ歩いて家のチャイムを押したら、留守だった。迷ったすえお向かいの飯野さんちに遊びに行くと、少し賑やかで、芳ちゃんだけではなく他にもうひとりいた。鍵を持ってなくて、と言うと、芳ちゃんはわたしを部屋にあげて、丁度よかった、リカちゃん王国作っていたの。と言う。聞き返すと、呆れたように笑って、一心不乱に紙の柵を作っている赤いスカートの女の子を指差した。 「虹子ちゃん。クラスの子。七夕の短冊に世界征服と書いたけど、なかなか叶わないから、リカちゃん王国を支配するって言う。うち、リカちゃん沢山あるから、ターゲット?」 ホラあの真ん中のがダザイフだって、と、大人びた芳ちゃんはバカにしたように笑った。聞こえないのか、虹子ちゃんは丁寧に山折りをしている。 「左手の、なに」 リカちゃんに飽きていたのか、芳ちゃんはわたしの明かりを気にした。わたしはちっとも明るくない明かりを掲げて、王様のしるしなんだって。と言った。芳ちゃんは、ブルータスよおまえもか、といったような表情をして、子供用ソファに座って漫画をめくりはじめた。 わたしはしゃがんで、掲げた明かりを、紙でしきった王国のなかにそっと置いた。ようやく虹子ちゃんが気付いて、明かりを怪訝そうに見る。目で尋ねる。 ―――ああ、あげる。あのねえ。それを持っていると王様になれるの。 虹子ちゃんは鼻で笑い飛ばして、リカちゃん王国の中から明かりを排除した。 「明かり」がテーマだった学校のコンクールに応募。
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ギルティーキティー |
―――あのパレエドがくるまえに、僕はどうしても猫を封じなければならないのさ。 長野作品に影響されたと思われる。トゥドゥーンの話。
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もう一年も返事がない | また新しい年度がくる。 わたしは高校三年にあがり、昨年や一昨年とずっと似たような顔ぶれの中で、勉強したり笑ったりして一年を過ごす。 この時期になると必ず、両親から命じられて、わたしと妹は丹念に部屋の掃除をする。一年で積もった汚れを拭きさって、教科書の類を入れ替えるのだ。物をどんどん捨てるからゴミ袋が一杯になって、部屋がどんどん殺風景になっていくを、わたしは無表情で見つめている。去年はまだ捨てられずにとっておいた思い出のものが、今年は何のためらいもなくゴミ袋行きになる残酷さ。だからわたしの部屋に昔のものはあまりない。悲しくならない?と妹の修子がよく尋ねるが、そんなことはまずない。修子の部屋のように、ものが満杯ででがたがたしているよりはずっとましだ。修子は一ヶ月に一度は部屋の大掃除をしなくては生活していけない。 「お姉ちゃん、それも捨てちゃうの」 向かいの部屋から悲鳴が上がった。 顔を上げると、修子が悲惨な顔をしてこちらを見ていた。両部屋ともに、換気のため扉を開け放しているから、向かいにある互いの部屋は丸見えなのだ。修子はしょっちゅう、わたしが捨てようとするものの代わりに悲痛な叫びを上げている。 「それ、一昨年の誕生日に先輩がくれたって言っていた人形じゃないの」 「そうよ。でも使わないし、とっておいても何にもならないし。修子、いる?」 修子はわたしの手の中の人形をじっと見た。 ピノッキオを模った、鼻の長いあやつり人形。木のにおいがする。原色のペンキがいやに派手でおもちゃっぽく、もらった当初はかなり嬉しかったしろものだ。 「いらない。そういうのは、もらった本人しか扱っちゃいけないんだから。ひとにあげたりしちゃいけないんだよ、お姉ちゃん」 修子はそう言い放つと、怒ったようにばたんと扉をしめた。すぐに埃が舞ったらしく、くしゃみと咳が連続して廊下に響いた。 わたしはひとつ肩をすくめた。 触れるたびにかくんと音がするピノッキオ。左の足の裏をひっくり返すと、「Shin」とサインがしてあることも知っている。Shinというのは、わたしにこれをくれた作り手の先輩だ。金野信生という、手先が器用で上品なひとで、わたしよりひとつ年上だった。 この平凡なわたしの人生の中で、今までで何かしら人に話せることと言えば、金野信生のことなのだ。 金野信生は、一昨年の夏に事故死した。 一昨年の夏のことだった。わたしはひとつ年上の先輩がたに交じって、手芸部の集まりに参加していた。 あの夏の日の幾日か、家庭科室に集ったメンバーは、みんな当時二年生の仲のいいひとたちばかりだった。「自由参加だから、来れたらでいいのよ。みんなで何か作りましょう」そう言った部長のひかりさんの言葉を鵜呑みにして、ぶらぶら夏休みの学校に訪れたわたしは、すぐに自分が過ったのを知った。家庭科室は閑散としていて、ひかりさん、相子さん、文さん、秀未さん、そして信生さんの五人がいるだけだったのだ。上品で美しく聡明な、完璧な五人組だった。お茶をいれビスケットを囲み、この暑いなか編み棒をゆるゆる動かして、貴婦人のお茶会のような雰囲気を醸し出していた。 (帰らなければ) わたしは焦った。 (わたしはあのなかには入れないのだから) そう思って身体をUターンさせたときだった。 「あ、瑞木さんじゃないの」 目敏い文さんが気付いて、わたしに向かって大きく声をかけた。 「こちらへおいで。えらいの、真面目にでてきたんだ」 残りの四人もはっと振り返ってわたしを確認した。 わたしはさらに縮こまった。 「ごめんなさい、わたし――」 消えそうな声で、わたしは何とか呟いた。 「まさか……みんな来るんだと思っていて」 手芸部は全部で二十人はいる、和やかな部活だった。一年生も、わたし以外に八人はいたはずだったのだ。 「それは悪いことをしたわ。夏休み中の自由参加なんて、ないも同然なのよ。わたしたちは奇特なの。わざわざ駅で待ち合わせてお茶飲むより、学校のほうが楽でいいでしょう?勝手に集まっているだけなのよ」 ひかりさんが笑った。 「わたし、失礼します」 「あれら、どうして。一緒にお茶でも?毎日同じメンバーで飽き飽きしていたところでさ。瑞木さん、下のお名前は?」 そう言ってむりやり引き止めたのは文さんだった。 秀未さんが無言で椅子を引っ張ってきて、わたしの席を用意する。 わたしは困惑しながらも、腰を下ろした。 「ヨリコです」 「どんな字」 「人偏にころもで、依。それに子供の子で、依子です」 途端に文さんは不機嫌になった。 「ああ、困るねえ、そういうのは。何と呼べばいいのかわかりゃしない」 「ちょっと、お黙んなさいよ。瑞木さん、そのひとの言うことは気にしなくていいわ。紅茶に砂糖はいくつ?」 ひかりさんが器用にポットを操りながら、ぴしゃりと言った。 「ええと、三つ―――」 「甘党め。そんなにいれたら死んじゃうぞ」 「死にゃあしないわよ。さっきからざらめのビスケットばっかり食べているようなひとが、よく言うわ。瑞木さんが目を白黒させているわよ」 文さんがちらりとこちらを見た。 美しく気高いこの五人の中でも、文さんは際立って美しかった。少しばかりきつい睛をもった彫りの深い顔立ちで、長い黒髪がよく生えている。その代わりかどうか、一番口が悪いのも文さんだった。 「さて、お友達が増えるっていうのは、いいことだわね。依子ちゃんというのは、いい名前だわ。さっきのブンの失礼な発言は忘れてね」 ひかりさんが言った。 「ブン?」 「文のことよ」 相子さんがそっと隣で囁いた。 「そう。夏休み限定の遊びでね、呼び合う名前を音読みさせているのよ。間違ったら缶ジュースのおごり。意外と燃えるんだけど、そういえば誰が言い出したんだったかしら?こんなくだらない遊びを」 「あたしよ、光」 文さんがぎろりとひかりさんを睨んだ。 「言っておきますけど、あたしは一言も音読みだなんて提案しなかったぞ。あたしは一度、フミちゃんとかモンちゃんとか呼ばれたかったの。なんだって満場一致でブンになんてなったのかしらア。それだったらアヤのほうがまだましなのにさ、立派な嫌がらだよなあ」 「あなたをモンちゃんなんて呼べると思うの。猿じゃあるまいし、ぞっとするわ。それにひらがな名のわたしに無理矢理漢字を当てはめてさらに音読みさせたのはどこのどいつだったかしら、文」 「知らないなあ」 文さんがにやりと笑った。小さな声で、仕返しさァ、と呟く。 「そう、だから秀未と相子はシュウとソウになるの。信生はシン。依子ちゃんは……依子ちゃんは依子ちゃんでいいわね。読ませるとしたらイだけれど、イッちゃんと呼ぶくらいなら、依子ちゃんのほうがかわいくていいものね」 「えっ、わたしもそのゲームに参加するんですか」 「モチロン。ちなみに今のところ、文が缶ジュース四本分の負け」 その不思議な茶話会は毎日あり、わたしはとりつかれたように欠かさず出席した。宿題を持っていくと、全員がこぞって教えてくれた。しかし勉強時間が多くなってくると、飽きたらしい文さんが嘘を教えるようになったので、相子さんがわたしの専属教師となった。 翌日、わたしたちは予定通りに駅へ集った。しかし午後になって、ひとつの番狂わせが起こった。信生さんが現れたのだ。 わたしは多分、かなりの月日を、信生さんの亡霊に怯えて過ごした。いつ振り返るか、いつ振り返るかと戦戦兢兢としていた。おそらく、あのひとがわたしを振り返るとき、それはわたしの死までイコールとなるのではないか――と、心の底で不安だったのだろうと思う。 文さんは、信生さんを殺した。 文さんが殺したのだ。もうそれしかないのだ。
「信は、信は、ずっと文を愛していたのだから……」 信生さんは振り返る。 (依子ちゃん)(文を悪者にしないでよ) 彼女の死にに行く道筋のむこうに、わたしは遼遠、ぼんやりとただ立っていたのだった。 日暮さんへ 05.07.31 献上。
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あのころ | いつもいつも、すれ違ったのち、肩越しにくりひろげられた物語がわたしに語りかける。 ―――今わたしが在るところは、物語の終わるわずか前の一瞬。 わたしが知りたいのは、通り過ぎていってしまった物語の結末。 いつだったか、わたしと明衣子は約束をした。 わたしたちのことなど何も気付きはせず、あいかわらず太陽と月は追いかけあって、とうとう卒業式の日が来た。 「明衣子ちゃんに何も言わなくて良かったの。もうこれでお別れなんでしょ」 『―――そしてあなたは今年、新しくおとめ座の友人を得、かに座の友人を失うでしょう。』 わたしの大声に、遠くで振り返った人影がひとつあった。ホームだ。ホームの端。 契約書は破れた。 砂漠に降りそそぐ雨のようでもある。 ―――それは死を願うほどに切なく。 ああやっぱり、わたしたちには何かがあったのだ。細く細く切れやすく見えない糸が、幾人もの小脇をすりぬけて、確かにつながっていた。だからわたしたち二人は、死別するしか別れる方法はないかと思っていた。運命ではないにしろ、二人にしか共通しない何かがあるのだと。その糸を保ち続けるのは六年が限界だとも知らずに、ただただそう、あのころは。 中学の卒業式が過ぎて、高校に入学する前の春休み時。
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