わたしは空を飛ぶ 砧の王様 ギルティーキティー もう一年も返事がない あのころ
 
わたしは空を飛ぶ  東京湾に住む人魚のゆみこは、時々さみしくなって私を呼ぶ。
私はゆみこの話し相手だった。彼女の姉の咲木子さんがいつかそう頼んでから、ずっと。
咲木子さんは、妹がとうとう水に帰ってしまってから暫くして、わざわざ私の元へきて、
「三っちゃん、悪いけど、うちは自生子がああなって、東京湾とわかる前、実家のある岡山へ帰ることになったの。だから三っちゃん、時々自生子のところへいってあげてね。」

 自生子は私の同級生だったが、二年前に留守番中に火事にあい、家は全焼した挙句、下半身を挟まれて脱出できずに大火傷を負った。そして自生子は、下半身を失って三日した晩に死の国の門をあけ、でも川を渡ることができなかった。泳ごうにも歩こうにも、両足がなかったから。
 そこで彼女は門番にお願いして、名前の漢字と引き換えで魚の尾とうろこを手に入れた。でもそのまま川を渡ろうとしたら、慣れていないからうまく泳げなくて、流されてしまった。溺れる人魚――そして彼女が溺れているあいだに、焼け爛れた皮膚を、その川は優しく癒した。
それで東京湾に流れついたのだ。
人魚のゆみこ。わたしは自生子の葬式の帰り道に、彼女に呼ばれて湾へ行った。
汚い海の泥水の中で、ゆみこは優雅に泳いで私を見つめていた。彼女の青紫のうろこが妖しく光って、長く黒い髪に美しく映える。

「咲木子さんが伝えてくれって」
彼女とその両親が岡山へ帰ってしまった後、私はひとりでゆみこに会いにいった。
「あなたはもう死ぬことができないから、永遠にそこにいて、神となれって。ゆみこ、あなたはもう本当に死んでしまっているの?」
「ミヨちゃん、私の葬式に出席して泣いてきたでしょう」
ゆみこは笑った。
「私は死んで、水に帰ったの。ねえ、人は死ねばみんな水に帰るの、ミヨちゃん。私はここを憂えていたから、ここへ辿りついた。でも私はいつか水をでて空を飛ぶよ。空を飛ぶってそんなにむつかしいことじゃないよ。ミヨちゃんだってきっと空を飛べる。」

 ゆみこの視線は広くて、それが死者の目線なのかとも思ったけれども、それはそうではなくて、やはりゆみこだからなのだった。
彼女は水にいるのに、人魚姫のように歩くことを望むのをすっ飛ばして、空を飛ぶと言ったのだ。
(ゆみこ、ゆみこ、人魚のあなたはもう翼などは手に入れられまいよ。ゆみこ、ゆみこ、あなたはその綺麗な尾以上に何も望むことはできないのだ。何故ならあなたはもう死ぬことはできなくて、永遠にそのままなのだから。)

 だからゆみこ、そうだ。
代わりにわたしが空を飛ぼう。わたしの翼はどんな遠くまででも飛んでいって、ゆみこに空を見せてやることができる。
わたしは空を飛ぶ。そう、今日にでも、あの東京湾のおそろしい港から、わたしは両手を広げ、翼を抱いて飛び立とう。ゆみこ、ゆみこ、あなたはそれをじっとりと見ていれば、それであなたは空を飛べるのだ。

席替えして窓側になって、授業中になんとなーく。
 
砧の王様  はるばる留萌から砧に引っ越してすぐ、まだ緑の多かった街中に、四田さんという表札が多いと気が付いた。うちの隣も四田さんだったし、はす向かいも四田さん。坂を下りればもう二軒、駅まで歩けばそれまでに七軒は見るだろう。しかもだいたい、豊かな自然に美しい池のあるようなお屋敷に、その表札がかかっているのだった。
「四田さんは砧の王よ」と母は言った。それでいて、四田さんの実態は誰も知らない。存在は謎のままで、母ももちろん父も、砧の王がどういう人物なのか何も知らなかった。
 王様の顔も年齢も知らないくせに、父も母も王様の忠実な家来となるのだった。お向かいの飯野さんにアドバイスをもらって、必死の貢ぎもの。引越しの挨拶も、四田さんへだけ他の三倍はあった。
 四田さんにペコペコすると何か良いことがあるのかと尋ねると、父は困った顔をしたが、クールな母は「ないわよ」と言い切った。だけど砧に住むなら砧の王にペコペコするのよ。郷に入っては郷に従えって言うでしょ。悪いことじゃないの、だって誰だって、アルゼンチンに行ったらアルゼンチンの大統領にペコペコするんだから。わたしたちは田舎者だから、都会の風習はまず真似しなきゃ生きていけないのよ。 そうしてわたしを責める。そういえばあんた、また友達と学校にお菓子持っていったんだって。学校行ってまでどうしてお菓子食べたいと思うの、ちゃんとお弁当あるじゃない。家ではお菓子、学校ではお弁当。わざわざはみ出すようなこと、しないで。
 その夜も母が、信州の伯母から送られてきたリンゴのダンボールを切って、半分ほど私に持たせて四田さんに届けさせた。届けるといっても、王様に会えたことなど一度もなく、隣の四田さんのチャイムを鳴らすと顔を出す掃除婦さんに託すのだ。はす向かいの四田さんに誰かが住んでいる雰囲気はない。その日ももちろんそのつもりで、リンゴを抱え、つっかけで家を出た。肌寒い夜で、さっさと渡してすぐ帰ろうと道路に走った。端から四田さんに会うつもりなどなかった。下々の人間は、王様への謁見など望みもしないものだ。まして、リンゴ如きで。
 そういうわけで、はす向かいの四田さんの門からちらりと明かりが見えたときは驚いた。明かりは揺れていて、どうやらランプの光だった。それが一瞬、ちらりと長い髪を映した。
「王女様だ」
思わず、指差す勢いのまま大声でそう言うと、明かりは大きく回ってわたしを照らした。目の高さにあがったので、王女様の顔が少しだけ見えた。
「小さい子、そこにいるの。今、わたしのことを何と言ったの」
ややハスキーで、綺麗な声だった。
「王女様です、砧の王女様」
「砧の王女?」
「四田さんは、砧の王だって、母が教えてくれました」
王女様は再び門を開けて、ゆっくりと近付き、わたしの目線に合わせてしゃがみこんだ。
「どこの子?お母さん、どこのおひと」
「あのう、わたし、はす向かいの入沢です。母から、リンゴを……おすそわけに」
「はす向かい。あそこか、あの柿の木のおうちね」
王女様は、うちを指差して言われた。
「リンゴか、ありがとう。以前、初秋に柿を頂いたでしょう。あの柿は……何というか、とってもシブかった」
手に持つ明かりがゆらゆらと揺れている。白雪姫の小人が持っているような、古いランプ。
「ごめんなさい。そうだ、食べる前に渡しちゃって、届けてから、シブ柿だって分かって、」
「いえいえ、だから干し柿にしたの、美味しくなった。まだあるから、食べていく」
王女様はそう言って、わたしを中に招いた。

 王女様の名前は、杲子さん。
暫くここに住むという。以前はどこに住んでいたのかと聞いたら、柿の木坂の何丁目だと答えた。新しい図書館の向かい。豆大福が美味しい和菓子屋さんの隣。おひとりで暮らしていたんですか?ここへもおひとりでいらしたんですか。
「駒乃ちゃんのようなパパやママは、今のわたしにはいないの。」
 初めて食べた干し柿は、うちの庭産ながら、あんまり好みの味ではなかった。
「じゃあ四田さんは杲子さんだけ?」
「ここに住んでいるのはわたしだけ。ここら一帯の四田には、ひとりずつ留守を預かっている家政婦さんがいるけども」
「じゃあ、じゃあ杲子さんは、王女様じゃなくて王様なんだ」
これは大発見だった。
 杲子さんはおみやげに、いやに大量の干し柿を持たせて、わたしを門まで送った。暗闇に明かりを持ったままその手で手を振るので、明かりがぐらぐらと揺れて、わたしの目を回した。
 そっと扉を開けてできるだけ静かにつっかけを脱いでいると、リンゴ届けるだけに何分かかったの、と母に目ざとく叱られた。砧の王に会ってきたのだと言うと、奇妙な表情を作って、曖昧に相槌を打つ。怒られはしなかった。
 何を感じたらいいのか考える。わたしは不思議な気持ちで椅子を引いた。もしかしてこうして、狐は虎の威を借ることを覚えていく。わたしがもし、お向かいの飯野さんちの賢い芳ちゃんだったら、これに味をしめ様々な理由に王様の名前を出して説教を回避するだろう。わたしは小心者だから、そんなことできないけれども。でも国には、国の中枢には、芳ちゃんのお化けくらい図太い人間のほうが多いのだ。

 新聞紙をわざと取らないで鍵をあけて、夕食後にテレビ欄を見ようとした母に頼まれて外に出る。夕刊を小脇に抱えて道路に出れば、明かりはいつも揺れていて、杲子さんはそこに立っていた。冬のにおいが微かに漂ってきたこの季節に、薄い服一枚で明かりをさげて、四田という表札の前に立つ。わたしはわざと下駄の音を高く響かせて少し歩いて、杲子さんが気付くのを待った。わたしを見つけると、杲子さんはいつも嬉しそうな顔をした。立ち姿にぼんやりと顎までを照らす光、白い肌、無地の服、長い髪なんかが、彼女をとても高貴に、人間でないもののように見せる。でも、時々晴れやかすぎる笑顔で少し強引に手渡される、アーモンドの缶やみかんの段ボール、明らかに近所の誰かから貢がれたらしき地域のおみやげ品やなんかが、杲子さんの存在を一気に人間に引き戻すのだった。
 杲子さんが毎晩外で何をしているのか、尋ねることはできなかった。夜以外に彼女を見ることはなかったし、つまりもしあそこに毎晩明かりを携えて立っていてくれなくなってしまったら、わたしはもう砧の王様に謁見をのぞむ術がなくなるし、それは回避すべきできごとだった。
 ただ拙いわたしの察するところ、杲子さんはよく道路を見ていた。おとなりの塀の煉瓦の数を気にしたりした。外に出てぼんやりとする明かりを見つけると、わたしは安心して走っていって、その持ち主が今何を見ているのか、少しだけ気にしていた。

 ある夜のことだった。
「予言をしてあげようか。駒乃ちゃんは、いつかわたしを信じない」
王様は唐突に、明かりを下に置いて両手をふった。空があって、月の見えない晩だと思っていたら、薄く光っていた雲が偏西風で流されると、月は静かに笑っていた。
「信じない?」
「わたしが、駒乃ちゃんわたしよ、杲子よ、と言っても信じないでしょう。今日のような夜に」
「どうして。わたしは盲目ではないし、疑い深い性格でもないから、杲子さんを信じるでしょう」
「駒乃ちゃん。これは予言なの。性格の問題じゃなくて、心理の問題になる。この明かりをわたしが持っていなかったら、駒乃ちゃんは不安になる。今度やってみましょう。絶対、駒乃ちゃんはわたしを確かめるのよ」
 果たしてその通りで、それから二週間ほどのちの晩に、暗い路地にぼうっと佇む人物を、わたしは杲子さんと確かめた。わたしは怖かったのだった。明かりを持たない王様は、ただの不審者かもしれないという不安をわたしに与えた。毎日毎日、同じ場所に立っていたのは杲子さん以外の誰でもなかったというのに。
 それからまた二週間ほどたったある晩、王様は明かりの他にスーツケースまで持って、悠然と立っていた。それは煉瓦を数えるためではなく、わたしを待つためだけにそこにいた、という感じだった。
 杲子さんはそして、わたしに別れを告げた。わたしは抵抗した。王様は、行かなければならないと微笑んだ。
「うーん、つまり、砧の王様は砧だけの王様じゃなかったというわけ。ブエノスアイレスだけがアルゼンチンじゃないのと同じ。アルゼンチンで一番偉い人は、ブエノスアイレスでも一番偉いけど、でもパンパス草原にいってもそこがアルゼンチンである限り一番偉いのよ。もうそろそろ他のところにも行かなきゃいけない」
「どうして行かなきゃいけないの。ここにいたらいけないの。他のところへいってどうするの」
「どうもしない。でも見て回らなきゃいけない。それが王様の唯一の仕事なの。王様は存在することが重要で、その仕事はただ見ること。でもそれしかできることはないから、一生懸命やりたいの」
スーツケースが地を離れた。わたしは焦った。
「では連れて行ってください。どこへゆくの?」
「どこへゆくにしたって、それがたとえ一歩だけ歩くのだって、わたしは誰かを連れていってあげるなんてそんな優しいことはしないの。わたしの肩に誰かの夢や希望をのせて、それで旅をするなんて、わたしは疲れてすぐに倒れてしまう。行くのは自分ひとりがいい。ひとりでどこかへ行ってごらん。応援はしてあげるから。忘れないでいてあげるから」
 わたしはそんなことはできない。悲しいことだが、そんな勇気のある、そんな決断力のある人間には生まれなかった。
 杲子さんは左手でスーツケースを持ち上げ、右手で明かりを持っていたが、おそらく虚しそうな顔をしていたのであろうわたしを見て慈悲の心を思ったのか、その右手を差し出した。わたしはその手にすがりついて引き止めたかった。しかし王様の狙いはそこではなくて、さげた明かりをわたしに与えたのだった。
「では駒乃ちゃんを後継者にしてからいくことにするわ。わたしがいなくなったら、駒乃ちゃんが砧の王様ね。この明かりをあげるから」
わたしは拒否した。
「わたしはだって、お向かいの飯野さんと変わらない。これを持っていたって、わたしはただのむすめであることに変わりはないから、」
「どうして。駒乃ちゃんはわたしを砧の王だと信じているけれど、わたしがいつかその明かりを持っていなかったら、信じなかった。つまりその明かりは持っていれば、駒野ちゃんだって砧の王」
「変な理屈に聞こえますも、」
「世の中の理屈に比べたら、ぜんぜん。」
わたしがまだ立っているうちに、王様は去っていった。

 次の日は一日中ずっと、わたしの左手には明かりがぶらさがっていた。
 まだ明るい昼間に、それはちっとも幻想的には映らない。大した価値のあるものには思えなかった。杲子さんが持っていたから、明かりは輝いて、何か王様のくんしょうのように映ったのだ。
 とぼとぼ歩いて家のチャイムを押したら、留守だった。迷ったすえお向かいの飯野さんちに遊びに行くと、少し賑やかで、芳ちゃんだけではなく他にもうひとりいた。鍵を持ってなくて、と言うと、芳ちゃんはわたしを部屋にあげて、丁度よかった、リカちゃん王国作っていたの。と言う。聞き返すと、呆れたように笑って、一心不乱に紙の柵を作っている赤いスカートの女の子を指差した。
「虹子ちゃん。クラスの子。七夕の短冊に世界征服と書いたけど、なかなか叶わないから、リカちゃん王国を支配するって言う。うち、リカちゃん沢山あるから、ターゲット?」
ホラあの真ん中のがダザイフだって、と、大人びた芳ちゃんはバカにしたように笑った。聞こえないのか、虹子ちゃんは丁寧に山折りをしている。
「左手の、なに」
リカちゃんに飽きていたのか、芳ちゃんはわたしの明かりを気にした。わたしはちっとも明るくない明かりを掲げて、王様のしるしなんだって。と言った。芳ちゃんは、ブルータスよおまえもか、といったような表情をして、子供用ソファに座って漫画をめくりはじめた。
 わたしはしゃがんで、掲げた明かりを、紙でしきった王国のなかにそっと置いた。ようやく虹子ちゃんが気付いて、明かりを怪訝そうに見る。目で尋ねる。
―――ああ、あげる。あのねえ。それを持っていると王様になれるの。
 虹子ちゃんは鼻で笑い飛ばして、リカちゃん王国の中から明かりを排除した。
「明かり」がテーマだった学校のコンクールに応募。
 
ギルティーキティー

 ―――あのパレエドがくるまえに、僕はどうしても猫を封じなければならないのさ。

 少年は、黄金の瞳を輝かせてそう言った。
バタパンを手渡しながら、僕は彼の服を盗み見た。彼は僕が知っている限り、いつも烏色のコオトを着ていた。袖も釦なく、広い襟を黄色い房のついた紐で首に巻いて固定しただけの、ごくごく簡素なもの。気になるのはその下のシャツだ。それは、いつもよく分からない布がちらりと見えるだけなのだ。
「君ンとこのやつぁ、いつもながら美味いな、」
僕の視線に気がついたのか、さり気なくコオトの前を押さえて、少年はにかっと笑う。
「バタパンをやったのは初めてのはずだよ、」
「分からないのな、バタのことさ、」
右手でパンを持ってかぶりつきながら、ギルの―――少年の名―――左手は忙しくズボンのポケットをまさぐっている。四つ目でようやく目当てのものを見つけて、彼は掌を僕につきだした。銅貨が数枚のっかっていた。
「ここ数日のパン代、」
驚いて受け取らないでいると、彼は眉をひそめた。僕のジャケットのポケットに、コインを強引につっこむ。
「君にじゃない、絶品のバタにさ」
「うちのアリスト=キッドにかい。そらあ、村一番と評判のやぎだもの」
「どうでもいいけどね。あのいけすかない猫を封じるまで、彼女にはもっと世話になるつもりだから」
 遠い眼で道を見据える、黄金の瞳。

 彼が指した猫というのが、この村の 白猫 ( イノセントキティー ) のことだと、僕はなぜだか分かっていた。

 トゥドゥーンの首都ヤヌバの南、ジャシーガのさらに南に位置する小さな村。ヤヌバまでいってこの話が通用するかどうかは知らないが、このあたりの村には『必ず白猫と黒猫が住んでいる』はずだ。それはそれぞれ『イノセントキティー』『ギルティーキティー』と呼ばれ、村を司っている。このふたつは対立していて、常に半分半分の力を村に与えている。だから幸福と不幸はじゅんじゅんにくるのだという―――そういう伝説。その二匹の猫を捕まえた人など、いないのだけれど。

「おまえ、しばらくウカに行くな」
ギルと話していると、父が渋い顔をして戻ってきた。今朝、アリスト=キッドの子やぎを売りに、ウカの村に住む知り合いのところへ行ってきたはずだった。
「なんで。ウカにはベッツがいるんだ。今度約束しているんだよ」
「とにかくだめだ、ベッツには急用だと言え。あの村は何だかおかしいぞ。少し前にパレエドが通ったばかりだから、いやに羽振りが良かったのはそのせいかと思って無視していたが、そんなもんじゃない。半端じゃない陽気さだ。何か狂っているぞ」
父はそれからぶつぶつとむつかしいことをつぶやいた。
 僕の隣で、ギルが突然鼻をひくつかせてはっと息を呑んだ。
怪訝そうな眼で、父が彼を見つめる。
「小父さん、猫を拾ったのかい」
「ん? ああ、そうだ、帰りに馬車でひきそうになったやつを、拾ったな。今、納屋にいるが、」
「黒いんだろう、そいつは。ウカの 黒猫 ( ギルティーキティー ) さ。パレエドに殺されたんだ、きっともう長くないよ」
父は絶句して彼を見た。そして数秒後に、思い出したように僕を見て、
「そっちは誰だ」
と尋ねた。
「僕はギル。宅のアリスト=キッドの友達だよ」
僕をさえぎってギルがそう言うと、父は目を白黒させた。僕があいまいに笑って何とかそれを飲み込んで、へらっと笑う。
「さあ、ウカの 黒猫 ( ギルティーキティー ) 、僕たちで看取ってやろう、おいで、」
彼は僕に手招きして、そのまま納屋へ駆けていった。
すれ違いざまに、独り言のように小さな声で、ギルがつぶやいたのが聞こえた。

―――言ったろう。だから何が何でも、あの 白猫 ( イノセントキティー ) を封じる必要があるんだって。

 ウカの 黒猫 ( ギルティーキティー ) は、すでに瀕死状態だった。
「こいつはもうだめだ。楽に殺してやりたいね」
ギルが言った。僕はその黒い背をそっと撫ぜてみた。黄金の瞳が、じっ、と僕を見つめる。その瞳がギルにうつると、その眼光は一層ひどくなった。
……荒い息のむこうで、何か言いたそうにしている、哀れな 黒猫 ( ギルティーキティー )
「ご覧、君を見つめているよ。何かメッセエジを伝えようとしているのかな、」
「そうさ。 黒猫 ( ギルティーキティー ) は最も高貴な神の化身なんだからね……さあ、もう話しかけないでくれよ。僕はメッセエジを聞きとらなきゃ」
そう言うとギルはしゃがみこんで、僕の手を払って代わりに自分の手をおいた。神の化身と目を合わせ、話している。
 彼の瞳が、 黒猫 ( ギルティーキティー ) と同じ色で輝くことに、僕はその時初めて気が付いた。

「おい、おまえ。あの黒猫はどうなったか、」
夕焼けを背にギルはどこかへと帰っていき、アリスト=キッドに晩飯をやるために出た裏の放牧場で、父は僕を見つけて声をかけた。
「死んだよ」
僕は答えた。
「死骸はギルが持っていった。ウカに返してやるってさ。僕らが行ったときは、もう虫の息だったよ」
あの後、ウカの 黒猫 ( ギルティーキティー ) はギルの腕の中で冷たくなっていった。ギルは何かをふつふつと口の中でつぶやくと、僕へ強い調子で物を言い、駆け去って行ったのだ。
 アリスト=キッドは、乱暴な僕の手つきに不服そうにメエと泣く。
「そうか。重くしちまったなあ、ごめんなあ」
「父さんのせいじゃなあないさ」

 ギルは言った。
「村から離れたら死ぬしかない―――どっちのキティーだってそうなんだ。両方とも村には必要不可欠な存在なんだから。だから片方が欠けてしまったらその村はもう終わりだ。 有罪 ( ギルティー ) に値するものがなくなったことで、ウカはもう滅びてしまうよ」
「なんでさ。 無罪 ( イノセント ) だけ残ったらいけないのかい?幸せだけ残ってハッピーエンドになるじゃないか。それに、白っぽい猫を飼っている家はあるけど黒っぽい猫がいる家はいないし、 白猫 ( イノセントキティー ) を祀っている村はあっても 黒猫 ( ギルティーキティー ) を崇めている村はないだろう」
「君は分かってないね。たった一人の良い村人だって、心の中にはわずかでも 有罪 ( ギルティー ) が存在するんだよ。それを 黒猫 ( ギルティーキティー ) はすべて背負ってくれているのさ。それが消えたらどうなると思う?」
考えてみて、僕はぞっとした。背筋を寒気が走って、思わず両手で自分を抱く。ベッツはどうなるのだろうと思った。
「……ねえ、でもどうして突然、ウカはこんなことになったんだい。 白猫 ( イノセントキティー ) が突然力を増して 黒猫 ( ギルティーキティー ) を追い出したとでも?」
「その通りだ、見直したよ」
ギルは失礼なくらい目をむいて僕を見た。
「言っているだろう、『どこまでも踊るパレエド』さ。ここはジャシーガのなかでも際立って田舎、王様の名前すら覚えていない村だ。日々の楽しいことなんて、そう多くあるかい?パレエドは異質だよ……一挙に 白猫 ( イノセントキティー ) に力を与えてしまう」
「どうにかする方法はあるの?」
「何度も言っているじゃないか。 白猫 ( イノセントキティー ) を一時的に封じればいいんだよ、パレエドが来てる間中、ずっとね。そうしたら力は同じになるのだから。殺すわけにはいかない。あくまでも力の封印なんだ。だけど、もしそれさえも間に合わなかったら……」
ギルは遠い目をして、つややかに光る黒髪を乱暴にひっかいた。
白猫 ( イノセントキティー ) 黒猫 ( ギルティーキティー ) は双方憎みあって成立している関係だ。力をつけた 白猫 ( イノセントキティー ) 黒猫 ( ギルティーキティー ) を追い出すだろう」

 翌朝僕は村の共同井戸に行き、たむろして苹果をかじっているジムに声をかけた。
「ねえ、僕たちは、あのパレエドを止めなきゃならないよ。この村にこさせてはいけない」
呆気にとられたジムにギルが言った内容をそのまま説明すると、彼は大笑いをした。笑いすぎて手から苹果が落ち、井戸の中へ落下していったが、それすら気付かないほどの大爆笑だった。
「おまえ、騙されてるんじゃないの。だいたい、封印の仕方なんて、 白猫 ( イノセントキティー ) 黒猫 ( ギルティーキティー ) は互いにしか知らないはずじゃないのかい。おまえは 黒猫 ( ギルティーキティー ) に会って話したとでも言うのかよ、」
ハッハッハと大きな声で笑う。
「おおッ、 黒猫 ( ギルティーキティー ) の毛がついてるぜ。縁起でもねえな」
そう言って僕のジャケットのポケットから毛を取ると、彼は歩み去っていった。

 ―――とうとう来てしまった。
僕とギルは、二人木立に立って、道のずっとずっと向こうを見つめていた。あれほど楽しみにしていたパレエドが、いまやもう泣きたくなるほどの怒りの矛先になっている。
 ―――もう遅い。ラッパを吹き鳴らし、ひたすら踊り続け、 黒猫 ( ギルティーキティー ) を殺し、村を滅ぼし続ける元凶は、もう目の前に見えているのだ。
「あまねく 無罪 ( イノセント ) ……後に 有罪 ( ギルティー ) や村全体をを滅ぼすものが、とうとうやってきたね」
それはつまり、 有罪 ( ギルティー ) をあまねいてしまうことと同意味なのだと、ギルは暗に示していた。

 パレエドは美しく舞って行った。
 村中あげて準備した甲斐あって、とてもとても、素敵なパレエドとなっていた。
 僕はちっとも楽しめなかった。今、この瞬間、陰で力をつけた 白猫 ( イノセントキティー ) 黒猫 ( ギルティーキティー ) を追い出しているだろうかと思うと、滅びゆくこの村のすえが見えた気がして、たまらなく不安だったのだ。

 ギルは、パレエドが去ったその晩現れた。その黒い姿を見た途端、僕は盛大に泣いた。
「もう、終わりなのかい。もう、駄目なんだね。 黒猫 ( ギルティーキティー ) 白猫 ( イノセントキティー ) に負けてしまった?」
「……ああ、負けたよ。勇敢に戦ったんだけどねえ」
目の前が真っ暗になった。
「じゃあ、この村は 有罪 ( ギルティー ) の判決を受けたんだ。僕はもう駄目だ、」
ギルは泣きそうな顔で笑った。
「しっかりしろよ、ねえ、君。君の命が滅びるわけではないんだからさ」
「それは、そうさ。ひどいことを言うね。命までとられたらたまらないよ、」
それを聞くと、ギルはまるで幼い赤子を見るような瞳で僕を見て、羨ましそうな声で
「そう、そのとおりだ、いいねえ、君は」
とそっとつぶやいた。
僕はその声を聞いて、途方もなく不安になった。思わずギルの腕をつかもうとして、そこでさらに驚愕の声を上げた。
「君、君、どうしたんだい。細すぎるじゃあないか。ずっと食べていないんだね」
彼はびっくりするほど痩せていた。よく見ると、目は落ち込み、前のようなきらめく黄金の色も失せている。頬は引っかき傷でいっぱいだった。
「何が、あったのさ。ギル」
ギルは微笑んだ。最高級に美しく、泣きそうな笑みだった。
「……君の自慢のアリスト=キッドだけど……、」
口元だけで笑う。
「……『 手負いのやぎ ( a wounded kid ) 』にならないように気をつけろよ」
「え?」
「それじゃあ、僕はもう行かなくちゃならないんだよ。さよなら、美味しいパンをありがとう。小父さんにもよろしく伝えてくれよ」
 彼はくるりと振り返って、あっという間に走り去った。僕に何もを言わせない、あまりにもあっけないさよならだった。

 そして僕はその日、夕焼けを背に、背を丸めてとぼとぼと歩き去る痩せぎすの 黒猫 ( ギルティーキティー ) を、見た。

長野作品に影響されたと思われる。トゥドゥーンの話。
 
もう一年も返事がない  また新しい年度がくる。
 わたしは高校三年にあがり、昨年や一昨年とずっと似たような顔ぶれの中で、勉強したり笑ったりして一年を過ごす。
 この時期になると必ず、両親から命じられて、わたしと妹は丹念に部屋の掃除をする。一年で積もった汚れを拭きさって、教科書の類を入れ替えるのだ。物をどんどん捨てるからゴミ袋が一杯になって、部屋がどんどん殺風景になっていくを、わたしは無表情で見つめている。去年はまだ捨てられずにとっておいた思い出のものが、今年は何のためらいもなくゴミ袋行きになる残酷さ。だからわたしの部屋に昔のものはあまりない。悲しくならない?と妹の修子がよく尋ねるが、そんなことはまずない。修子の部屋のように、ものが満杯ででがたがたしているよりはずっとましだ。修子は一ヶ月に一度は部屋の大掃除をしなくては生活していけない。
「お姉ちゃん、それも捨てちゃうの」
向かいの部屋から悲鳴が上がった。
 顔を上げると、修子が悲惨な顔をしてこちらを見ていた。両部屋ともに、換気のため扉を開け放しているから、向かいにある互いの部屋は丸見えなのだ。修子はしょっちゅう、わたしが捨てようとするものの代わりに悲痛な叫びを上げている。
「それ、一昨年の誕生日に先輩がくれたって言っていた人形じゃないの」
「そうよ。でも使わないし、とっておいても何にもならないし。修子、いる?」
修子はわたしの手の中の人形をじっと見た。
 ピノッキオを模った、鼻の長いあやつり人形。木のにおいがする。原色のペンキがいやに派手でおもちゃっぽく、もらった当初はかなり嬉しかったしろものだ。
「いらない。そういうのは、もらった本人しか扱っちゃいけないんだから。ひとにあげたりしちゃいけないんだよ、お姉ちゃん」
 修子はそう言い放つと、怒ったようにばたんと扉をしめた。すぐに埃が舞ったらしく、くしゃみと咳が連続して廊下に響いた。
 わたしはひとつ肩をすくめた。
 触れるたびにかくんと音がするピノッキオ。左の足の裏をひっくり返すと、「Shin」とサインがしてあることも知っている。Shinというのは、わたしにこれをくれた作り手の先輩だ。金野信生という、手先が器用で上品なひとで、わたしよりひとつ年上だった。
 この平凡なわたしの人生の中で、今までで何かしら人に話せることと言えば、金野信生のことなのだ。
 金野信生は、一昨年の夏に事故死した。


 一昨年の夏のことだった。わたしはひとつ年上の先輩がたに交じって、手芸部の集まりに参加していた。
 あの夏の日の幾日か、家庭科室に集ったメンバーは、みんな当時二年生の仲のいいひとたちばかりだった。「自由参加だから、来れたらでいいのよ。みんなで何か作りましょう」そう言った部長のひかりさんの言葉を鵜呑みにして、ぶらぶら夏休みの学校に訪れたわたしは、すぐに自分が過ったのを知った。家庭科室は閑散としていて、ひかりさん、相子さん、文さん、秀未さん、そして信生さんの五人がいるだけだったのだ。上品で美しく聡明な、完璧な五人組だった。お茶をいれビスケットを囲み、この暑いなか編み棒をゆるゆる動かして、貴婦人のお茶会のような雰囲気を醸し出していた。
(帰らなければ)
わたしは焦った。
(わたしはあのなかには入れないのだから)
そう思って身体をUターンさせたときだった。
「あ、瑞木さんじゃないの」
目敏い文さんが気付いて、わたしに向かって大きく声をかけた。
「こちらへおいで。えらいの、真面目にでてきたんだ」
残りの四人もはっと振り返ってわたしを確認した。
 わたしはさらに縮こまった。
「ごめんなさい、わたし――」
消えそうな声で、わたしは何とか呟いた。
「まさか……みんな来るんだと思っていて」
 手芸部は全部で二十人はいる、和やかな部活だった。一年生も、わたし以外に八人はいたはずだったのだ。
「それは悪いことをしたわ。夏休み中の自由参加なんて、ないも同然なのよ。わたしたちは奇特なの。わざわざ駅で待ち合わせてお茶飲むより、学校のほうが楽でいいでしょう?勝手に集まっているだけなのよ」
ひかりさんが笑った。
「わたし、失礼します」
「あれら、どうして。一緒にお茶でも?毎日同じメンバーで飽き飽きしていたところでさ。瑞木さん、下のお名前は?」
そう言ってむりやり引き止めたのは文さんだった。
 秀未さんが無言で椅子を引っ張ってきて、わたしの席を用意する。
 わたしは困惑しながらも、腰を下ろした。
「ヨリコです」
「どんな字」
「人偏にころもで、依。それに子供の子で、依子です」
途端に文さんは不機嫌になった。
「ああ、困るねえ、そういうのは。何と呼べばいいのかわかりゃしない」
「ちょっと、お黙んなさいよ。瑞木さん、そのひとの言うことは気にしなくていいわ。紅茶に砂糖はいくつ?」
ひかりさんが器用にポットを操りながら、ぴしゃりと言った。
「ええと、三つ―――」
「甘党め。そんなにいれたら死んじゃうぞ」
「死にゃあしないわよ。さっきからざらめのビスケットばっかり食べているようなひとが、よく言うわ。瑞木さんが目を白黒させているわよ」
 文さんがちらりとこちらを見た。
 美しく気高いこの五人の中でも、文さんは際立って美しかった。少しばかりきつい睛をもった彫りの深い顔立ちで、長い黒髪がよく生えている。その代わりかどうか、一番口が悪いのも文さんだった。
「さて、お友達が増えるっていうのは、いいことだわね。依子ちゃんというのは、いい名前だわ。さっきのブンの失礼な発言は忘れてね」
ひかりさんが言った。
「ブン?」
「文のことよ」
相子さんがそっと隣で囁いた。
「そう。夏休み限定の遊びでね、呼び合う名前を音読みさせているのよ。間違ったら缶ジュースのおごり。意外と燃えるんだけど、そういえば誰が言い出したんだったかしら?こんなくだらない遊びを」
「あたしよ、光」
文さんがぎろりとひかりさんを睨んだ。
「言っておきますけど、あたしは一言も音読みだなんて提案しなかったぞ。あたしは一度、フミちゃんとかモンちゃんとか呼ばれたかったの。なんだって満場一致でブンになんてなったのかしらア。それだったらアヤのほうがまだましなのにさ、立派な嫌がらだよなあ」
「あなたをモンちゃんなんて呼べると思うの。猿じゃあるまいし、ぞっとするわ。それにひらがな名のわたしに無理矢理漢字を当てはめてさらに音読みさせたのはどこのどいつだったかしら、文」
「知らないなあ」
文さんがにやりと笑った。小さな声で、仕返しさァ、と呟く。
「そう、だから秀未と相子はシュウとソウになるの。信生はシン。依子ちゃんは……依子ちゃんは依子ちゃんでいいわね。読ませるとしたらイだけれど、イッちゃんと呼ぶくらいなら、依子ちゃんのほうがかわいくていいものね」
「えっ、わたしもそのゲームに参加するんですか」
「モチロン。ちなみに今のところ、文が缶ジュース四本分の負け」

 その不思議な茶話会は毎日あり、わたしはとりつかれたように欠かさず出席した。宿題を持っていくと、全員がこぞって教えてくれた。しかし勉強時間が多くなってくると、飽きたらしい文さんが嘘を教えるようになったので、相子さんがわたしの専属教師となった。
 そのまま二週間が過ぎ、八月に入った。
 その日は信生さんが欠席していた。今年の夏の最高気温を記録したとか言う暑い日で、さすがに扇風機だけの中でポットの紅茶を飲む勇気はなく、わたしたちは麦茶に氷をたっぷり入れて何杯もあおった。
「駄目だ」
文さんは暑さに弱いらしかった。今にも溶けそうにへばり、舌を出して、唸っていた。
「明日はここを欠席する。わたしは明日、絶対に這いずってでもプールへいく。相、付き合いたまへ」
「えっ、明日って、何曜日」
相子さんの疑問に、わたしたちは誰一人答えることができなかった。曜日の感覚がなくなっていたのと、暑さのせいで頭の回転が鈍かったのと、両方ある。
「手帳ありますよ、見ますか?」
 わたしは朝鞄に突っ込んだ手帳を取り出して、相子さんに手渡した。藍子さんはありがとうと言って受け取り、長い指でぱらぱらとめくtって八月を開けた。秀未さんが「かわいい手帳ね」と笑いながら、横から覗き込む。
「あ」
あまりの暑さに、遠くの景色が歪んで見える気がする。
「ね、依子ちゃん、今日が誕生日なんだ?」
顔を上げると、秀未さんと相子さんがきらきら輝いた睛でわたしを見つめていた。
「はい。だから今日は早めに失礼します、夕食はホテルなので」
「それはおめでとう」
次から次へとおめでとうを言われて、わたしは照れた。
「ということは、まだ十六歳か、若いわね、いいわねえ」
ひとつしか違わないくせに、ひかりさんがため息をつく。
「光、光、あたしもまだ十六だよ。早生まれですからネ、究極の四月一日生まれ。若くて羨ましいだろう」
「あら、どうだか。早生まれっていいことばかりじゃないわ。たとえば成人式の日、わたしたち、みんなして文の前でお酒をあおってやるんだから。あんたはそのときまだ十九だから、飲めないのよ。切ないわね」
「冗談。あたしは血筋的にアルコールが駄目なんだ。飲めなくて結構、水でだって同じくらいはしゃげるさ。麻薬くらい口の中で自由自在」
「あんたは、そうでしょうよ。羨ましいくらい能天気だわ」
いつものごとく言い合いをするひかりさんと文さんを、秀未さんがとんとんと机を叩いて黙らせた。
「ねえ、わたしたち、漫才をする時間があるなら、依子ちゃんの誕生日を祝うべきだと思うのよ」
にこりと笑う。
わたしはぎょっとしたが、残りのみんなの顔がぱっと輝いたのを見た。
「ああ、それはとてもいいアイデアだわ」
ひかりさんが言った。
「依子ちゃん、このあとディナーって言ったかしら。今日忙しいなら、明日、集まりましょうよ。いいわよね、依子ちゃん。毎日毎日学校に集まるのもどうかと思っていたの。一日くらい外にでてもいいわね。依子ちゃん誕生記念パーティ」
「ああ、それなら秀の家にいこう」
文さんが即答した。
「秀のマンションの屋上には確かプールがあった!だよなあ?」
「はい、あります」
秀未さんが笑う。
「じゃ、明日は十一時に南口、メンバーはわたし、文、秀、相子――違った、相――うるさいわね文、ちゃんと払うわよ――それに依子ちゃんね」
「あれ、信さんは?」
わたしは当然の疑問を投げかけた。
 ひかりさんと文さんがちらりと目を合わせた。
「信ね、最近ちょっといろいろあるみたいよ」
秀未さんが言うと、相子さんもうなずいた。
「信は、明日は呼ぶのよしましょう。きっとなんだか、集まって騒ぐような気分じゃないと思うわ。明日は依子ちゃんを中心に、わたしと文と秀でおしゃべりしましょう」
 有無を言わさぬ断固とした口調で、ひかりさんが言った。
 扇風機の電池が切れて、ゆっくりと回転をやめた。その緩く響く音が、わたしたちに一瞬の静寂をついていた。

 翌日、わたしたちは予定通りに駅へ集った。しかし午後になって、ひとつの番狂わせが起こった。信生さんが現れたのだ。
 秀さんの家で、両親もいるのにチャイムがなった時、わたしを除く四人は一瞬固まった。文さんですら、ケーキを食べる手を止めて、玄関へ目を走らせた。
 不安と、そして危惧だったのだろう。それは見事に的中した。
「やっぱり。ここにいると思った」
扉の向こうには、信生さんが笑いながら立っていた。
「相のお母さんに話を聞いたわ。わたしに秘密なんてずるい。依子ちゃんだって、ひとつでも多くプレゼントを貰いたいでしょ」
 彼女は必要以上に笑顔だった。わたしは怖かった。知らず知らずのうちにうなずいていて、固い顔をしているひかりさんたちにも気が付かなかった。
 信生さんは持っていた袋を開けた。
「頑張ったのよ、わたし。どうかな、これ」
そこに、ピノッキオがいたのだった。
「すごい」
 わたしは感嘆した。本当にすごい出来のマリオネットだったのだ。赤ん坊くらいの大きさでゆらすとかたかたとかわいらしい音を立てて動く。素敵だった。
「ありがとうございます、信さん」
「よかったわね、依子ちゃん」
かたい声で、ひかりさんが言った。
 信生さんはにこりと笑った。
その日が、金野信生の命日となった。


 生きている信生さんを最後に見たのは、きっとわたしだったはずだ。
 信生さんの死は、あまりにも完璧すぎた。
 彼女はあのあと、一度ひかりさんの家により、そして帰り道、文さんと電話をしている最中に線路に落ちた。落とした携帯電話を拾おうとして足を滑らせたという。ならばどうして、相子さんと秀未さんへの手紙つきの袋だけが、ホームへ残っていた?ハンドバッグでさえ木っ端微塵に飛び去っていたのに。まったくそんな偶然が起こるものなのだろうか。
 これで信生さんは、ひかりさん、秀未さん、相子さん、文さんにそれぞれメッセージを残したことになる。そしてあの夏の仲間のなかで唯一残ったこのわたしは、彼女を最後に見かけた存在だ。
 だからあのとき、死に行く横断歩道の向こうで、信生さんはわたしに気付いていたのではないか?そう、彼女は駅に死にに行ったのではないか。
 あの駅に行くたび、信号が赤になるたび、向こう側を横切って改札機に消える信生さん。
 ああ、今日こそ信生さんが振り返る。依ちゃん、こっちよ。あのひとはわたしに気が付いていて、声をかけなかったわたしを疎んでいるに違いない。依子ちゃん、気付いているんでしょ。今度こそこちらへ向くかもしれない。ねえ、話したいことがあるのよ。けれどわたしは目をそらすことができない。信生さんの髪がゆれるのを、そのまま凝視することしかできない。
 ああ、伏せたまつげが瞬いて、ほら、あのひとが振り返る。わたしの瞳を捕らえて、睨むように笑うんだ。
「依子」
わたしは我に返って隣を見た。
 同学年の規花が、不審そうな視線をわたしに送っていた。
「誰かいるの。何をじっと見ているの」
「規花」
わたしは右手をぎこちなく動かし、信生さんを指差した。
「あのひと、見える?飴色のワンピースに白いカーディガンを着て、麦藁帽子をかぶっているあのひと。今、改札に消えようとしている」
どれどれ、と規花はわたしの指先を追った。
 一番初めに見たのは、確か信生さんが死んでから三日ほど過ぎたある日のことだった。
 それからというもの、この駅の横断歩道にきて、信号が赤になるたび、わたしにはあの日の信生さんが見える。同じ服をきて、同じ仕草で、改札へ消えてゆく。死にに行くのだ。
「ああ、今、階段を上っているひとね。見えるわ。あのひとが、なに?知り合い?」
「え……知り合い。ああ、うん、そうよ」
 あれは確かに、一昨年に死んだ信生さんで間違いない。
 けれどあの姿が、規花にも見えるという。わたしの瞳が起こした幻覚ではないらしい。

 わたしは多分、かなりの月日を、信生さんの亡霊に怯えて過ごした。いつ振り返るか、いつ振り返るかと戦戦兢兢としていた。おそらく、あのひとがわたしを振り返るとき、それはわたしの死までイコールとなるのではないか――と、心の底で不安だったのだろうと思う。
 ピノッキオを捨て、高校三年という重大な年にデビューし、ひかりさんたち四人は大学へ行き遠いひととなった。わたしは修子にも、規花たち友達にも、酷薄且つ冷酷なひとと呼ばれた。信生さんの死によって、わたしの人生が百八十度変わってしまったようだった。あの夏、はじめて家庭科室の扉を押した時の初々しい心は、もうわたしの体のどこにもかけらすら残っていなかった。
 その冷淡な頭を回転させ、六月、わたしは随分かかってひとつの結論を出した。
 季節が過ぎるのが遅い年で、まだむっとした夏のにおいはかげない日だった。わたしは意を決し、ひかりさんたち四人があがった大学へ足を運んだ。
 全ての決着をつけたかった。一生このまま、薄く不透明なフィルターがわたしを包んで、季節の景色の美しい眺めを見せるのを拒むのを、許しておくわけにはいかなかった。いつかたたっ切ってしまわなければならないと思っていた。今日ですべてに終止符を打つ。知らず知らず、わたしは意気込んでいる。ひとりきり部屋で情熱を弄ぶようなことは、昨日までだ。
 前日にメールで頼んであった場所に、ひかりさんは静かに立っていた。脇に、秀未さんが小ぢんまりと背を丸めている。
 ふたりとも、小さかった。
「コウ……ひかりさん、秀未さん、お久しぶりです」
わざわざすみません、と頭を下げると、ふたりは切なく微笑んで、いいのよ、と口をそろえた。
「大学生活は、どうですか。やっぱり忙しいですよね」
愛想笑いをして、当たり障りのない会話をする。そんな自分に、わたしはもう慣れ始めている。
「いいわよ依子ちゃん」
秀未さんの顔から笑みが消えた。
「え?」
「世間話は、もういいわ。ひかりもわたしも、覚悟してきたのだから。依ちゃん、信生さんのことでわたしたちを呼び出したのよね」
 ひかりさんはうつむいている。あの時と、まるで立場が逆だった、色々と変わってしまったのは、どうやらわたしだけではないらしかった。
「相子さんは」
「彼女は今他校に行っているわ」
「そうですか」
 うつむいたひかりさんの、それでも鋭く光る睛。その隣には、常にそれよりさらに強靭な睛をもつ美しい人がいなければならなかった。
「信生さんを――信生さんが死んだ事故に関して、犯人とも言える存在は……文さんです」
あの美しかったおひと。優艶で、口の悪さにくわえて、不思議なカリスマ性を持っていた。
「理由は?」
秀未さんが尋ねた。
「文さんはあれ以来、去年もずっと、一度だってわたしと話すことはおろか、目を合わせようともしないんです。それで――」
わたしは長い話を始めるつもりで口を開いた。しかし最後まで言い終えることはできなかった。
 ひかりさんが、驚くべきスピードで顔をあげ、わたしの腕にストップをかけた。細い手首だった。こんな華奢な手が、あの大きくて重いポットを支えていたのだろうか。
「依子ちゃん、それは違う……」
ひかりさんが呟く。
「ねえ依子ちゃん、聞いて。早とちりしないで、ちゃんと理解して。文はまったく何も悪くなんてないわ。文を責めるのは筋違いだわ」
今まさに動き出そうとしている小さな虫が、ひかりさんの頬のあたりを引っ掻いている。
「あなたと信はとても似ているの」
ひかりさんは目線をそらした。
「その涼しい目も、薄い唇も、白い肌も、通った鼻も、すべてが、まるで信だわ」
 太陽がじりじりとわたしたちの首筋を焦がす。気が付けば、昨日よりずっと太陽が燃えていた。やはり、もう夏なのだ。また夏が来たのだ。
「信がいなくなってから、それが今まで以上に目に付くようになった。わたしだって、今こうしてあなたに信の話をしていることが不思議で、つらいわ。文は耐えられなかったのよ、まるで信に生き写しなあなたと過ごすことが、話すことが、目を合わせることが」
 違う。
 断じて、それだけではない。
 あのひとはわたしを、苦しくて遠ざけているのではない。文さんはわたしとすれ違うとき、ひどく無表情でも、無感情でもなかった。ただ、興味が無いように見えた。もう、瑞木依子というこの存在に、何の必要性も感じていないのだ。
「それにね、あなただけじゃないのよ。依子ちゃんほど露骨に避けられたりはしないけれど、わたしも秀も相も、信がいなくなってから、文とまともに話したことないわ。もう随分経つけれど。だから真相は謎のまま。電話で何を話していたのかも、信が最後に発した言葉がなんだったのか、何も知らないの」
悲しげともとれるし、さばさばしているともとれる不思議な声が響く。
 金野信生。
 彼女はいったい誰だったのだろう。誰もわからない。誰もが知りたいと願うのに、残されたひとびとは、もうそれを知る術を持っていない。
「あれ」
 では何故、文さんはわたしと話す必要性を感じなくなったのか?何が関係しているのか。
決まっている、信生さんの死だ。それしかない。
 では、何故信生さんが死ぬとわたしに必要性がなくなるのか?
「あれ、どうしてだろう。わたし、今、とても不思議なことを言おうとしたわ……」
 秀未さんがそっと口を押さえた。
わたしは立ち止まって振り返った。
 あの夏の日の窓のように、若葉が光を反射して目が痛い。
「まるで、文は――依子ちゃんが信生と親しかったから、仕方なく仲良くしていたように……」
秀未さんはちらりとわたしを見た。
 それはたぶん違う。
 もう今では、自分の出生さえも信じられなくなってきていた。それすらどうでもいいという、投げやりな気持ち。もしかしたらわたしは、信生さんの生き別れの妹だったのかもしれない。だけどそれは可能性的にごく低い。秀未さんがどんなデジャヴをうけたとしても、わたしは既にひとつの結論にたどり着いている。
 美しい横顔。
傲慢な態度に愛すべきセルフィッシュネス。

 文さんは、信生さんを殺した。

 文さんが殺したのだ。もうそれしかないのだ。
 わたしはこの二年間、いつ信生さんが振り返るかと、びくびくしながら駅へ行っていた。しかしいつまでも信生さんが振り返らない以上、信生さん自身が死ぬ決意を持っていたわけがない。彼女はただ駅に向かった。今も昔も、ずっとただ帰るために改札口を通っているのだ。そしてホームで、文さんに殺される―――きっと、氷のような言葉の刃物で、何回でも。決して文さん自身の手は汚されることなく。
 そう、ずっと違和感を持っていたのだ。
信生さんの通夜で、文さんが涙したことに。
 友人が死んで泣くのは当たり前で、秀未さんも相子さんもはらはらと涙を流していて、それは当然のことのように思えたものだから、今まで何が変だと思ったのかすら分かっていなかった。けれど気がついた。わたしはみんなにまじって泣いた文さんを見て違和感を持ったのだ。
 そうなのだ。おかしかったのだ。傲慢で冷酷でセルフィッシュな文さんが?
 お調子者で愛想がよくトラブルメーカーなひとというのは、だいたい二種類に分かれるはずだ。本当にそういうキャラクターを持っている、陽気で単純なひとがひとつ。そしてもうひとつはそれとまったく反対で、素で冷酷なところがあるひとだ。
 文さんは後者に入ると思っていた。いつもへらへらと笑っていて、人前で泣くことなんて絶対にない。悲しくとも、相手を冗談でばかにする方向へ感情をだす人種。
 いくらあの夏で仲間だった信生さんが死んだからって、文さんのそのキャラクターは簡単に変わるはずもなかった。だから文さんが泣くはずはなかったのだ。そう、例えば、ひとり拗ねたように壁に寄りかかって、秀未さんや相子さんが泣いているのを「情の深いやつ。常識的に、人は生まれたら死ぬものよ」と言いながら脚を崩し、誰かに注意されたらひどく憤って、「あほうらめ」とか言いながら立ち去るのが一番お似合いだ。そしてそのあと、橋脚に身を委ねてひとり静かに物思いにふけるのがいい。そういうのが文さんだったはずだ。決して彼女は、人前で声を上げて泣いたりするはずがなかったのだ。
「あの夏の事件の真相を、暴きたいと思う?依子ちゃん」
「…………」
わたしはそれを暴きに今日ここへ来たのだ。
 ひかりさんは唇をかみ締めて、顔を上げていた。
「依子ちゃんがそのつもりなら、止めないわ。それはあなたの自由だし、わたしに止める権利はないもの。でもわたしはそれをしたいとは思わないし、してほしくないという気持ちがあることも否めないわ」
「だって、ひかりさん、本当に気にならないんですか。自殺だったのか、事故だったのか。選択肢はふたつだけ。電話で文さんに言われた内容に、信生さんがショックをうけて線路に飛び降りたのか、それとも、その内容に思わず携帯電話を取り落として、それを拾おうとして足を滑らして落ちたのか。どっちにしろ、それはつまり文さんが殺したことになるんです。信生さん自身がそう断言して、ひかりさんに語ったのではなかったんですか」
「やめて、やめて依子ちゃん」
ひかりさんは叫んだ。
 わたしは思わずたじろいだ。
「だからいやなのよ。忘れないで、わたしは文も信も死ぬほど好きだったのよ。わたしだって、文が好きだったのよ。文だって信を好きだったのよ。少し意味の色合いが違うだけなのよ。なくしたら痛い存在なことにかわりはないの。文を悪者なんかにしたくないのよ。依子ちゃんは平気なの?自分も大好きな、仲が良かったふたりが、片方によって片方が殺されたとしたら。ショックじゃないの?それを受け入れることができる?わたしはできないわ、そんなに強くないのよ」
 わたしは、ひかりさんが喚いたその半分も理解できなかった。しかし彼女は確かに、わたしの話をいやだと言う。
「ひかりさん、先輩にわたしの話をきく義務は確かにありませんよ」
――でもあなたはやってきた。
「こなくてもよかったのに、ひかりさんはここへやってきましたよね。わたしの話が何なのかわかっているとおっしゃっていたのに。聞く覚悟があったのではないのですか」
 秀未さんがちらりとひかりさんを盗み見ている。
「依子ちゃん、わたしたちは――」
「あなたの話を聞いて、そしてその間違いを正したかったのよ」
ひかりさんが唸る。
「いいえ、もしかしたら依子ちゃんがあっているのかもしれない。あなたが何を言いたいのか、全部わかっているつもりよ。でも信生はその結論が出るのを望まない――そう思うから、あなたの知らない真実の一部を教えようと思って、こうしてあなたに会ったのよ」
 今度はわたしがどもる番だった。
「しんじつ?」
 そんなものがあるわけがない。信生さんは全てを隠し通し、謎のまま死んだはずだった。
 ふたりの先輩はわたしをじっと見つめながら、ゆっくりと肩の力を抜き、話す体制を整えた。
「ねえ、あの夏、信があなたに贈ったピノッキオがあったわね」
 わたしは頷いた。裏にShinとサインがしてあった。今は夢の島辺りに眠っているのだろうか。
「あのころから信はショックのせいでちょっとおかしかったわ。依子ちゃんの誕生日会にあえて信を呼ぼうとしなかったのは、だからなの。でも信はそれに気がついて、秀の家へやってきてしまった。あのピノッキオを持ってね。わたしと文は、信が袋からあのあやつり人形を取り出したとき、どきりとしたわ」
ひかりさんは小石を蹴った。
「あのマリオネットはね。いつか、文が信へ贈ったものなのよ。だいたいあんな器用にあやつり人形が作れるのは文くらいだわ。信はずいぶん不器用だったから。けれど後輩のあなたはそんなこと何も知らなかったから、信の手作りという言葉を信じた。嫌がらせのつもりだったのかしら。たぶんそうだったんだと思うわ。信は必要以上に機嫌が良くて、あなたに陽気に話しかけていたものね」
 からからに乾いたのどの奥が、高音の悲鳴を上げた。
 草木は、そろそろつぼみから花開こうとしている。じっとりとしたカーチィベィが、ひかりさんのはなだ色のスカートを靡かせて去ってゆく。その暑さの中で、わたしの周りだけが真冬のように寒かった。
 何かがほぐれていくのだと感じていた。予想もしなかった何かが。何のヒントもないのに、ただ予感が大きく蠢いている。
「何がショックだったと……何に嫌がらせをすると……」
 音にならない声を絞り出して、必死の形相で尋ねると、ひかりさんは一瞬躊躇してから、意を決したようにわたしに言った。
「依子ちゃんの誕生日の前々日くらいに、文は信を拒絶したのよ。それにショックをうけて、嫌がらせを考え付いたんだと思うの」
 空は青く、空気は澄んでいる。
 人差し指と親指を重ねて左手を差し出すと、描いた円の間から、美しい風光がのぞく。
「信は、信は、ずっと文を愛していたのだから……」


 信号が赤になった。
今日もまた、横断歩道のむこうを横切っていく、信生さんの細い身体。

「信は、信は、ずっと文を愛していたのだから……」

 信生さんは振り返る。
振り返ってわたしを凝視する。

(依子ちゃん)(文を悪者にしないでよ)

彼女の死にに行く道筋のむこうに、わたしは遼遠、ぼんやりとただ立っていたのだった。

日暮さんへ 05.07.31 献上。
 
あのころ
 いつもいつも、すれ違ったのち、肩越しにくりひろげられた物語がわたしに語りかける。
―――今わたしが在るところは、物語の終わるわずか前の一瞬。
 わたしが知りたいのは、通り過ぎていってしまった物語の結末。

 いつだったか、わたしと明衣子は約束をした。
 約束というより、契約に近かった。書類を作り、サインをし、血判を押すつもりだったほどだ。実際には、神聖なる儀式の最中に二人とも針を持っていないことに気がついて、血判は諦めたのだったが。
『わたしたちふたりは、利用し利用される関係にある。
そのいち、互いに深く干渉をせず、
そのに、表面上は親しく、
そのさん、それ以上の感情を持たない。』
 確かにわたしたちはそのとき、まだあまりに幼かったのだ。
 この時点で誰か大人に心のうちを読まれたら、間髪入れず自信過剰だと言われただろう。わたしたちは『互いに』『干渉』などという難しい単語の羅列に気をよくして、ふんぞりかえっていた。このときはそうだったのだ。だがわたしたちは成長するうち、それに伴う実力を手に入れはじめていた。
 偉い人が―――それはもう漠然とした『偉い人』つまりオトナが―――お昼寝をしているあいだに、わたしたちは鳥になり猫になり馬になり、フィルターのかかった世界を力いっぱい楽しんだ。完璧な友達だった。今思えば、稚い時代特有の少し気取った無邪気さだった。しかし、それでもわたしたちは絶対に、互いを友達とは呼ばなかった。
 あのころ、それぞれ九歳と十歳の幼い頭で、明衣子とわたしは『友達』の限界を理解していたのだと思う。小学校からの友達が一生続くことは滅多にない。だからあえて友達にはならなかったのだ。『相棒』は途切れることがない、と信じていた。たかが名称ですべてが変わることなどありえないのに、純粋に、自信満々に、それを頭から信じていたのだ。
 常若の国。
一度その世界に触れてしまった心は、もうそれを忘れることができない。
―――結局、どうだ。
 あのころ不可侵だと信じていたこの遠くも近い手の間には、くっきりと区切られたボーダーラインが横たわり、わたしの相棒は別にいる。契約など交わさない、自然に共に歩いていける友達ができたのだ。わたしには。
 いつからか明衣子は、ただひとつの惑星も持たない孤独な太陽となっていた。
 そのころからわたしは契約を破りはじめた。共にいることに苦しくなってきたのだ。そもそも、明衣子はどんどん彼女の殻を閉じていって、利用する価値がなくなってきていた。
―――変わったのは明衣子のほうだ。わたしは何も変わっていない。
 わたしはそう信じていた。そうして自分を正当化してぬくぬくと生きていた。だが明衣子は未だにひとり、あの契約にすがりついているように見えた。新しい―――といってももう三年にもなる―――友達の輪にとけこむわたしを、遠くからその鋭い瞳で見つめている。いや、わたしを直接見ることは決してないのだ。冷ややかな目線を手元の暗記帳に落として、無言でわたしに訴える。あの契約はどうなったのか、と。
―――わたしを解き放て。
 あの幼い記憶から、過去のすべてを解き放つ。
 既に明衣子を忌んでしまった今、わたしにとってあの契約は、煙たく暗澹たるものでしかない。あのころのようにときめきを与えるものとなることは、きっと二度とありえないのだ。卒業を迎えるころには、わたしをひきよせる微かな想いはきれいさっぱり無くなっていた。

 わたしたちのことなど何も気付きはせず、あいかわらず太陽と月は追いかけあって、とうとう卒業式の日が来た。
 その日の朝、わたしはからにほど近い鞄を眺めた。明衣子に贈ったり渡したりする餞別は、何も用意していなかった。
はじめは、万華鏡を渡そうかと思っていたのだ。
 わたしの持っている本に、南へいく子が友達から釦やビーズなどをひとつずつもらって、万華鏡を作る話があったのだ。南へ向かう船の中で、それをはじめて覗き込む。その地で手に入れたものすべての思い出の品になる。
 だがわたしはそれを諦めた。思いついてから三日ほどでそれは無理だと思った。
 明衣子には、親しい友達がいなかったのだ。
―――明衣子のために、釦をひとつ。
そう言ったら、大抵の子は喜んで何かしらの釦をはずすだろう。そして嬉々として、わたしの差し出す万華鏡にそれを放り込む。
所詮、自分のためだ。
その場の雰囲気に酔いきっている。たとえ明衣子あてじゃなくたって、普段関わりのない子にだって、その子のために彼女らは釦をむしるだろう。なんて素敵なアイデア。劇的じゃないの。わたしが去るときにも、万華鏡を作ってよね―――結局明衣子よりも、それをするポーズと自分に万々歳なのだ。友達じゃない。それを分かっていて、万華鏡を贈るわけにはいかなかった。
 ―――卒業式は、無感動な誰かの声で終了を告げた。
 とうとう、明衣子と話すことはなかった。目さえもあわなかった。
きっともう二度と、明衣子に会うことはないだろう。たとえ街ですれ違ったとしても、互いにわざわざ話しかけるようなまねはしない。あのころのように心から語り合う可能性は、今、永遠に失われた。
「あれ、りゅうちゃんどこいくの」
佳織が白いリボンをひらめかせて振り返った。通学路が同じで、今年から一緒に帰っている友人だ。
「どこって、もう帰ろう。いい加減にカメラしまったら」
佳織は慌てたようにうなずいて、かばんをごそごそやるとすぐについてきた。

「明衣子ちゃんに何も言わなくて良かったの。もうこれでお別れなんでしょ」
駅への道のりの最中、おそるおそるといった感じで、佳織が口を開いた。
「佳織はいいの?」
「わたしはさよならって言ったよ。にしても明衣子ちゃんは不思議な子だね。こうやって向かい合って、それじゃあさよならねって言って、すれ違った次の瞬間、ふいに何かを思い出すの。いつもそうだった。明衣子ちゃんの脇を通ると、ずっと何かを思い出してた。甘いんだけど微かに苦い記憶。楽しいんだけど、もれなくいやなこともついてくるから、できれば思い出したくない記憶」
 わたしは黙っていた。佳織は鋭い。何かを感じている。もしかしたら、わたしと明衣子の間を通る時なんて、びんびんに何かを感じていたのだろうか。この子はきっと、夜毎夜毎に生まれ変わっている。六年前から何も変わっていないわたしとは大違いだ。
 佳織はわたしが気分を害したらしいと思ったようで、以後駅までずっと黙ってついてきた。だが駅に入ると、明らかに不満の声を上げた。
「りゅうちゃんこのまままっすぐ帰るつもりなの、最後なのに。今なら何しても怒られやしないのに」
「怒られますよ」
「でもだって、だって、だって」
 ちらりと右を見て分かった。佳織が食いついてきたのは、新しく駅内にできた本屋に足を踏み入れたいからだろう。
「分かった、本屋ならつきあう」
「よオし」
 意気込んで行った佳織だが、それは入り口で強制的にストップさせられた。明らかに不良タイプの女子高生が二人入り口付近を陣取っていて、なかなか通れるものではなかったのだ。
「あれ、星座占いだ」
 女子高生が見ている本を見つけて、佳織が嬉しげな声を上げる。
すると女子高生の片方がそれを不快気に見やって、わざとかどうか知らないが、
「みずがめ座のとってェー」
と甲高い声をあげた。眉をひそめる暇もなく、「あいよ」という声と共に、友達らしき少女が薄い水色の本を一冊手渡す。すぐさまその少女は大きな声で読み上げ始めた。
「うわア恋愛運最低だってエ……なにそれありえないしイ……」
 ばかかおまえ、という思いが相手の脳波にまでキャッチされるよう、わたしは体中から不快オーラを出してみる。
 だいたいこういう星座占いは嫌いだ。わたしもみずがめ座だが、なんたって、こんなキンキン声で茶髪でまぶたの白い少女とわたしが同じ運勢になるのだ。いい加減なことこの上ない。
「すれ違いざまにサ、『同じみずがめ座として恥ずかし』とでも言ってやろか」
「絶対やめてよりゅうちゃん」
 卒業式の日に喧嘩を売るか、なんて非常識な、と佳織がわたしをにらむ。佳織もみずがめ座だ。まったくもって占いほどインチキなものはあるまい。
 佳織に片手をぎゅっと握られて、しぶしぶ無言で無理矢理後ろを通り過ぎようとしたとき、ふとのぞいたその本の章題が目に入った。
『―――かに座との不思議な相性』
 確か明衣子はかに座だった。
 わたしは思わず足を止めて、佳織の手を振り払い、積み上げられた本のうち一冊を手に取った。
『―――かに座との不思議な相性
みずがめ座とかに座、またおとめ座とは、すべての星座のなかでも最も不思議なえにしで結ばれている星座です。
おとめ座とは非常に密接な関係があります。普通の友人というよりは、親友になるか強大なライバルになるかのどちらかが多いようです。
そしてかに座とは、一言では言えないえにしがあるようです。あなたの人生を変えたり、転機のとき導となっていたりなど、みずがめ座の運命の分岐点で必ずや姿をあらわすのがかに座です。しかしそれが長続きするのはまれです。あまりにも深い深い絆は、いつか耐え切れずにほとんどが切れてしまいます。そして不思議なまでにぱったりと交流がなくなるでしょう。その点はおとめ座より激しいのです。おとめ座との関係は、あるおとめ座の人とは親友でまた別のおとめ座の人とはライバルというのが多いですが、かに座とは、ある一人の人について親友であったりライバルであったりするのです。』
 明衣子ひとりについて、親友であったり、ライバルであったりするのか。いやとんでもない、ただの占いだ。
 だが閉じようとした瞬間、それはわたしの目に飛び込んできた。最後の一行。
『―――そしてあなたは今年、新しくおとめ座の友人を得、かに座の友人を失うでしょう。』
 わたしは相棒の姿を思い浮かべた。
あの子はいつ生まれだったか。確か夏休みの終わりごろで、いつもいつも宿題に追われながら誕生日を迎えると笑っていた。
 ページをめくる。はじめに載っている星座表に目をやる。
おとめ座。あの子はおとめ座生まれだ。
『新しくおとめ座の友人を得……』
わたしは慌てて本をひっくり返した。表紙を見る。
そこには青い大きなゴシック体で、『二〇〇四年のみずがめ座の運勢』と書いてあった。
 ふいに目の前が真暗になるのがわかった。
―――冗談じゃない、わたしは
―――こんなものに従って、星なんかにあやつられて、一番大事だったものを手放したわけじゃないんだ。
「いやだよ!」

『―――そしてあなたは今年、新しくおとめ座の友人を得、かに座の友人を失うでしょう。』

 わたしの大声に、遠くで振り返った人影がひとつあった。ホームだ。ホームの端。
「りゅうちゃんどこいくのっまたアッ」
 わたしのかばんを掴もうとした佳織の手を間一髪でよけ、走って走って、息を切らしながらわずかな階段を登り、わずかに何もない空に近づく。
 静かなホームだった。ごくちいさなざわめきすら聞こえない。何も見えない。見えるのは、遠くでこちらを凝視している明衣子の鋭利な視線だけ。
 わたしたちは、ホームの果ての壁へやってきた。
今、わたしたち二人と世界を分かちあう者は、一人としていない。今、この瞬間は、何の予覚も信じられない。お互いがすべてだ。
「明衣子」
 何か、薄いフィルターのようなものが、確かにここにある。醒めない夢を見続けているような、不思議な透明感が。
 その向こうで繰り返されているのは、烈しい優しさと穏やかな憎しみ―――なのだとか。
だがそれは今、ひそかに破られつつあった。
「めいこ……」
過ぎ去った夢の時代が、誘うようにゆらめいている。
そう、あのころと違い、君の中にわたしを駆り立てる何かはもうない。消えてしまった。
でも、たとえ過ぎし日々と未来を結ぶ道があったとしても、わたしも明衣子もそこに足をかけはしないだろう。ただその道が消えるまで、風に震えながら瞳をそらすこともできずに立っているだけだろう。今の状況こそがまさにそれなのだ。
油色の日々だ。何も見えない。どちらを向いても、何を見ても、すべてが歪んで見える。
「わたし、もう行かないといけない」
明衣子が口を開いた。相変わらずな口調だった。
「だからりゅう、何か言いたいことがあるなら早くして」
「冷たいね」
眉がひくりと動く。
「明衣子は、冷たい」
明衣子はわたしに最後まで言わせなかった。途中で、普段と違い語気を荒くして叫んだ。
「冷たいのはどっちよ。はじめに契約を破ったのはどっちよ。今頃になってどうして未練たらしくかまいだすのよ」
なんのことだ。
「契約。そのよん。覚えてないの」
契約。
自分で結んでおきながら、わたしを縛り付けていたあの忌まわしい契約。
ひとり、封じられたはずのあの記憶を、その孤独な心でひとり、未だ暖め続けている人がいる。
「りゅう」
明衣子は鞄を開けて、ビニルのファイルから紙を一枚取り出した。
「読んでみたら」
それは懐かしい紙だった。すべてのはじまりの契約書。
『そのいち、互いに深く干渉をせず、そのに、表面上は親しく、そのさん、それ以上の感情を持たない』
 これを書いたのは明衣子だ。難しい漢字に不釣合いな幼い頃の明衣子の字が、白さを保ち続けているレポート用紙にしっかりと刻んである。
 その下に、明らかに筆圧の違ういびつな文字が九文字、並んでいた。
『そのよん、えいえんに』
わたしは息を呑んだ。唐突に記憶がよみがえってきた。
 ああ、これが。
 確かにわたしが書いたのだ。わずか九歳のりゅうが書き足したのだ。ずっとずっと前から忘れていた。
 明衣子はどう思っていただろう。これを片時も忘れていたことなどなかったに違いない。
「返す」
呆然としているわたしに、明衣子はさらに冷たく言い放った。
「思えば、契約書が一枚しかないっていうことも変な話だったわね。あのころはわたしたち、どんな大人ぶっててもやっぱりまだ幼かったんだわ。どうせわたしはここを離れるし、ちょうどいいから過去は全部捨てることにする。りゅうもきっぱり忘れてかまわないわよ。ずっとそれを願ってたんでしょう」
「明衣子」
喉がからからに渇いている。
「……わたしたちは、わたしたちの考えで、これを実行するんだ」
明衣子の顔に疑問符が浮かんだ。
「明衣子、明衣子、これを破ろう。今この場で、ふたりで、せえの破るんだ。縛られるものは何一つなくなる。わたしたちは自分たちの意思によって、ここに別れを宣言する」
「どうしたの、りゅう」
「なんでもないよ。そっちを持つんだ、ほらせえので」

 契約書は破れた。
それはせまりくる電車の音と重なる。
―――あんなに忌んでいた契約書。

 砂漠に降りそそぐ雨のようでもある。
けれどその感情を最もうまく表わすそれは、ずいぶんむかしに誰かが言っていた。
 大地を砕く。
 亀裂が走り、水がほとばしり、間から砂がこぼれ落ちる。何か大きなものを亡くしたような、恐ろしい失望感が襲う。後戻りはできない。だが同時に、まったく新しい白くたいらな出現の場が、姿を見せる気がするのだ。
 そうやって皆が情景を思い浮かべている時に、そりゃあ答案がなにも埋められなくて背筋がスッとなる感じに似ているなァ、と言って静けさをぶち壊したのは、このわたし自身だった。その場の雰囲気に耐えられなくなり、柄でもないぼけをわざとしたのだ。明衣子は無表情でわたしを見つめていた。
 出会いを受け入れる者。それがわたしの仲間たちすべてで、わたしの愛するものすべてだった。そうして出会ったはずなのに、別れを招いたのは誰なのか、未だに誰も分からずにいたのだ。
明衣子が去った石だたみの道は、水に揺れていた。
 ショーケースの中では古い舞踏靴が眠り続け、おそらく激しく活躍したころの、遠い昔の夢を見ている。空にはくるくるとよくまわる仔馬が、獲物を探し駆け回るガーゴイルが、風に溶けつつある殺意が。空中にはいにしえ人の崩れた夢が、見知らぬ国から届いた風が、全てをめぐらせる種が。地上には、ただ白黒の画と文字となった物事が、慌てて駆けつけてきた佳織が。君の胸の中には夢を見る方法が、宇宙より遠く膨大な記憶が、世界のはしの光景が。

―――それは死を願うほどに切なく。

 ああやっぱり、わたしたちには何かがあったのだ。細く細く切れやすく見えない糸が、幾人もの小脇をすりぬけて、確かにつながっていた。だからわたしたち二人は、死別するしか別れる方法はないかと思っていた。運命ではないにしろ、二人にしか共通しない何かがあるのだと。その糸を保ち続けるのは六年が限界だとも知らずに、ただただそう、あのころは。

中学の卒業式が過ぎて、高校に入学する前の春休み時。



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